加藤有隣 幕末の動乱に身を投じる切欠となった高杉晋作との出会い

明治維新で長州藩士らとともに活躍した笠間出身の儒学者、加藤桜老(おうろう)(1811~84年)の生誕200年記念展が笠間公民館(笠間市石井)で開かれている。12月20日まで。戦前は市内に銅像があり、維新の功績をたたえていたが、戦後は忘れ去られていた人物。市史編纂(へんさん)作業の中で地元の偉人として再評価する機運が生まれ、再び脚光を浴びようとしている。(2011.11.27 MSNニュース)

加藤有隣(名は煕『ひろし』。字は伯敬。別号に榊『しんいん』。)は文化八年七月ニ十八日、水戸藩士佐藤政祥の子として生まれる。7歳の時、外祖父である笠間藩士加藤忽蔵の養子となる。若くして学識高く、19歳で水戸藩の会沢正志斎、藤田東湖から水戸学を、江戸の昌平黌で学びながら、平田篤胤からは儒学、神道、更には雅楽、兵学、砲術を学んでいる。こうした豊富な知識と見識を用い笠間藩の藩政改革を実行しようとしたものの挫折、40歳で隠居の身となった。

隠居後の安政三年(1856年)、三方に筑波、葦穂、我国、翠屏、柊、鯨、載圖、偃莖、加波、夏屋、比聖、南臺、餘波の山々が見渡せる御旗前(現茨城県笠間市笠間字御旗前)に十三山書楼と名づけた隠居所を建て、1階では私塾を開き、2階の書斎では国事を討論した。日本中から集まってきた志士達と交流の最中、長州藩士高杉晋作が有隣を訪れたのは、万延元年(1860年)九月三日朝だったという。

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『太平洋戦争で供出されるまで、笠間市山麓公園には御所に伏拝する加藤煕の銅像があった。隠居宅の十三山書楼も笠間稲荷神社に移築されたが、昭和の初めに焼失したという』

安政五年七月、晋作は藩命により勉学のため江戸へ出府しました。この時、長州藩士が数多く入門している斉藤弥九朗の練兵館に籍を置き、撃剣にも力を入れていたようです。有隣の下を訪れたのは、師の紹介状を頼りに、北関東、東北、北陸を剣術修行する旅の目的の一つでありました。彼が各地を遊歴しながら書いた旅日誌「試撃行日譜」には、『予此行素以探奇人偉士為主 人其為誰 笠間加藤有隣 信州佐久間象山 越前横井平四郎 安芸吉村秋陽也』とあるように、有隣をはじめ、佐久間象山や横井小楠という各地の名士を訪ねることを何より楽しみにしていたようです。(1)

 もう少し旅日誌から引用させてもらうと、晋作は有隣の印象を以下のように書いています。「則惣髪老成 座于楼上 閑座清貧  音楽  養浩然気有 他方有志士至 必于楼 論天下事」、先生は老いてはいるが髪を総髪にし、二階の書斎で浩然の気を育みながら、慎ましく暮らしている。その一方で、志ある士が訪れれば書斎に招き、天下の趨勢を論じ合うと。(2)

 有隣も晋作のことが気に入ったようで、書斎で深夜まで大いに語りあったとされています。翌日、寝る間も惜しんで別れの挨拶に行くと、再び書斎へ招かれ談じ合ってしまったと。さすがに君命による遊歴なため、辞去せざるを得なかったわけですが、短い滞在であったにもかかわらず、恩師と別れるようだったと晋作は書いています。

 二人が再会したのは、文久ニ年(1862年)閏八月でした。晋作はその年、幕府の随行員としてアヘン戦争で敗れた清国上海を視察しています。彼は欧米列強に半植民地化された現状を日本国の将来と重ね、危惧を抱き帰国しました。「狂挙の儀」と、自らの行動を呼んだ晋作は中途半端な攘夷では上海の二の舞になってしまうと考え、幕府の開港条約を破棄させ、外国人は日本へ近づけない徹底的な攘夷以外にはないという結論に至ります。

 そのためには、自分も師吉田松陰に倣い、脱藩し身軽になって国事に奔走するのだと、世子毛利定広公に届けを出して、藩邸を飛び出してしまったのです。そして、向かった先が笠間の有隣先生の下だったのです。先生ならば、水戸藩士を説得してくれて行動を共にしてくれるだろうと。ですが、有隣は晋作の脱藩を思い留め江戸に戻るよう説得したようです。更に晋作が罪を被らないよう、事前に桂小五郎に手紙を書いて処置をお願いしていたのです。九月半ばに江戸に戻った晋作は、その間有隣の下にいて今後のことについて話し合っていたと思われます。おそらく有隣に再び世に出て、一緒に国事に奔走してほしいと頼んでいたに違いありません。翌年、有隣は長州藩に召しだされ、藩校明倫館で水戸学を教え、城下郊外に私塾詠帰塾を開き、若き長州藩士達をはじめ、新しい日本を背負う次ぎの世代の教育に務めたのです。

維新後、有隣は新政府で大小学校建議を書き、教育制度の制定に貢献しています。仮に晋作との出会いがなければ、笠間で隠棲する儒学者だけの存在であったかもしれません。短い滞在で有隣を長年お世話になっている先生のように感じた晋作同様に、有隣も彼を一目見ただけで、日本の将来に必要な人材であることを見抜いていたのでしょう。表立って大きく取り上げられることない二人の出会いではありますが、歴史的には光が当たるべき事件であるように思えてなりません。

(1)嘉永ニ年(1849年)、長州藩は藩校明倫館を萩城下に移築再建した。この際、藩主毛利敬親公は武士道の根源は日々の修行にあることを論旨し、藩士らの文武向上のため、他藩の武芸者を大いに歓迎した。これにより、新しい明倫館には数多の剣客達が集まり、その中に斉藤弥九朗の長男新太郎も門人と共に来藩していた。城下の道場を尽く打ち破った神道無念流の進歩した刀法に注目した藩上役は、嘉永五年に新太郎を改めて招聘し、明倫館で指導させた。この際、藩剣術家の多くが無念流の門下に降っている。桂小五郎ら7名の藩士達は江戸の練兵館に入門するため、新太郎の帰東に付き従っている。

(2)浩然の気とは、物事にとらわれない大らかな心持ちをいう。(「孟子」公孫丑上より)

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