茅野和助常成 もと咲く野辺に枯れる覚悟をこめた自筆の遺書が発見される  

忠臣蔵で知られる赤穂浪士四十七士の1人で岡山県津山市出身の茅野和助(1667~1703)が、討ち入り直前に書いた自筆の遺書とみられる手紙が、津山市内で見つかった。(2011.12.12YomiuriOnline)

茅野常成は寛文七年(1667年)の生まれ、美作国津山藩森家に仕えていたが、同家が跡目相続を巡る問題で改易となったため、隣国の赤穂浅野家に再仕官した。禄高は五両三人扶持、役柄は横目付であった。しかし、仕官してわずか4年で、浅野家に降りかかった凶事により、再び浪人の身となる。赤穂藩では新参であったが、和助常成は最初から義盟に参加している。

元禄十五年(1703年)十ニ月十四日の吉良邸討入りに際しては、大石主税の裏門組に属し、屋外で千馬三郎兵衛、間新六らと共に弓で応戦している。

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毎年、この時期になると話題に事欠かない忠臣蔵ですが、今だに新たに発見される遺品があることには驚きをかくせません。やはり、当時から義士達の品々には特別な想いがあったことが伺えます。さて、こうした赤穂四十七士の遺品や遺物というと真先に思い浮ぶのが、泉岳寺の宝物館です。

元禄の当時、実は江戸の庶民は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った事件よりも、その後、肥後細川家をはじめとした4大名家で切腹したことの方に、はるかに高い関心を示したそうです。四十六士の遺骸は泉岳寺の浅野内匠頭の墓前の空いている場所に埋葬されました。物見高い江戸の人々は、当然のように参拝に来るわけです。これが大変な人気だったようで、泉岳寺は毎日のように混雑したということです。ところが、いくら忠臣とはいえ、幕法で裁かれた者達を大勢で参拝するのはけしからんと、寺社奉行が泉岳寺の参拝や法要を身内以外は禁止してしまったのです。そのため、混雑は少しづつ減っていったものの、義士達への熱が冷めることはなかったのは云うまでもありません。

そして、時は寛政八年(1796年)ニ月ニ十八日、泉岳寺では百年忌(実際は100年に少し足りない)ということで、赤穂義士の大開帳、初めて市民も参加できる法要を催したのです。さすがに1世紀近くも経っていたので、幕府も口を挟まなかったのでしょうし、「仮名手本忠臣蔵」のヒットにより、赤穂義士は半ば伝説化していたわけですから、これは大いに評判になったとのことです。この時に、当時義士達が携行していた武器や身につけていた品々を陳列して公開したとのことです。

三田村鳶魚は、これら泉岳寺の宝物に関して、甚だ怪しいものだと書き残しております。比較的多くの文献で、その事は指摘されているので、現在では疑う人もいないかもしれません。酬山という住職が私欲のためにほとんど売り払ってしまい、当時から相当の非難を受けたということです。寛政の大開帳の時に、宝物の目録を刷って配布したのですが、この時の品数が52点程だったそうです。ところが、現在に至ると180品近くに増えているわけです。寺側に言わせますと、これは一度売り払った品を少しずつ買い戻したためだそうなんです。この他にも当時の泉岳寺では、どうも義士関連で胡散臭い話が多だあるようです。しかし、現在の泉岳寺が胡散臭いとは、私自身も決して思ってはおりません、念のために。

以上の話を踏まえる必要はありませんが、今回発見された茅野和助の遺書は、同郷で明治の自由民権運動家仁木永祐の生家から発見された点から考えてみても、真筆の可能性は高いのではないでしょうか。遺書の中で将来を心配された長子猪之助は他の義士達の子同様に遠島の対象でしたが、当時4歳だったこともあり、処分を猶予されていました。その6年後、将軍綱吉の死去により恩赦を受け、罪に服すことはありませんでした。

参考文献

「三田村鳶魚全集16 横から見た赤穂義士」

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