野崎主計正盛 江戸無血開城の一因と伝わる歌は自害した十津川郷士の辞世歌だった 

明治維新の先駆けとされる天誅組蜂起(1863年)。自刃した十津川郷士の辞世の歌が西郷隆盛を動かし、5年後の江戸城無血開城につながったという話が、「維新の魁・天誅組」保存伝承・推進協の機関誌で紹介されている。西郷を巡る“伝説”の一つのようだが、歌は確かに存在する。十津川の人々に受け継がれる高い志と郷土愛を示すエピソードだ。(2012.2.5毎日新聞)

野崎主計は文政七年(1824年)、十津川郷川津村(現奈良県吉野郡十津川村大字川津)に生まれる。若年時病で床から起き上がることが出来なかったが、その間書物を通じて郷第一の世間通となり「川津のしりくさり」と呼ばれた。安政のはじめ、京で儒学者梅田雲浜をはじめ攘夷志士達との交友を深める。

文久三年(1863年)八月二十日、大和国五条代官所を襲い倒幕挙兵した天誅組が十津川村に援軍を要請したのを機に、野村は長殿村で総裁吉村虎太郎に挙兵が義の戦いであることを確認し郷党を率いて参戦した。しかし、同月十八日の政変により天誅組はすでに賊徒とされており、事実を知るに及んで十津川郷士達は離脱した。主計は全ての責任を負い、九月二十四日故郷狸尾にて自害した。享年39歳。維新後、贈正五位。

西郷吉之助が鳥羽・伏見の戦い後の慶応四年ニ月二日付で大久保一蔵に出した手紙に、「慶喜退隠ノ嘆願 甚ダ以テ不届キ千万 是非切腹マデニハ参リ申サズ候デハ相スマズ(中略)断然追討アラセラレタキ事ト存奉候(後略)」 と書いています。この手紙は前将軍夫人であり明治天皇の叔母にあたる静寛院宮(和宮)が将軍慶喜公の助命と徳川家存続嘆願書を朝廷に出したことに対する西郷の心境を表す貴重な史料です。

期日は前後しますが、江戸城を退去し上野寛永寺にて恭順を示した慶喜公に対して、三条実美、岩倉具視、木戸準一郎ら新政権内でも助命案が持ち上がっていたのです。一般的に勝海舟と西郷の会談により土壇場での江戸攻撃中止の実現という美談を信じている人も多いかもしれません。確かに、勝と西郷という器の大きな人物同士でなければ、細かい事を抜きにして攻撃予定日ぎりぎりの段階でこれを中止させることは出来なかったことは間違いありません。しかし、西郷自身も上記の手紙を書いた後の早い時点から、新政府同様に徳川助命存続論に転じはじめていたというのが事実のようです。

西郷が武力革命から無血革命に転じた最大の理由は二つありました。一つは民衆による武力革命への発展を危惧したためです。勝が山岡鉄太郎に託し西郷に渡した手紙にはもし江戸攻撃を実行すれば、頑民無頼の徒が不測の事態を引起こすであろうと警告しています。この「頑民無頼の徒」というのは、薩長に対決姿勢を取る佐幕派の武士のことではありません。一般民衆の革命的蜂起、すなわち一揆のことを言っているのです。当初、京都新政権は国民を旧支配者である幕府と藩支配層から切り離すべく、この年の正月に年貢半減という具体策を持ってこれを利用しようと考えてました。ところが、二月末から三月の初めに掛けて江戸で起きた以上に強力な一揆が信州から北関東一帯に広がってしまい、新政府では手に負えない事態となっていたのです。そのため全国の秩序を回復するを優先させるため、徳川家の処分は早々に助命存続に方針転換していたのです。強行論であった西郷も事態を憂慮しこれに従わざるをえなかったわけです。 一方であくまで武力蜂起する民衆に対しては、同じく方針を180度転換し近隣諸藩に勅命として鎮圧を命じたのです。民衆と深く結びつきすぎたため偽官軍として切捨てられた赤報隊の事件の背景にはこのような事情があったわけです。

もう一点は英国公使パークスによる圧力でした。パークスは慶応三年末よりアーネスト・サトーを京阪に派遣し、京都と江戸の間で戦争による共倒れを防ぐべく京都側に工作をおこなわせてました。英国にとって、江戸攻撃による横浜居留地への被害と同時に貿易に悪い影響が出ることが最大の懸念だったのです。三月十四日に勝との最初の会談を終えた西郷は、戦時になった際横浜の外国人病院で負傷者を治療して貰うようパークスに依頼しましたが、この時恭順している慶喜公を討つことは万国公法に反すると一喝されてしまったのです。時期的にもパークスの怒りだけで西郷が方針を転換させたわけではありませんが、英国の協力を不可欠としていた西郷にとって大きな要因となったことは間違いないでしょう。結局、江戸城を平和的に開城した西郷は維新の英雄としての地位を不動のものとしましたが、同時に武力革命の指導者という舞台からは降板せざるをえなく、明治十年に賊としてその生涯を終えるまでの悲劇の始まりともなってしまったのです。

さて、いくつかの史料に目を通しましたが、蓮月尼が京三条大橋で西郷吉之助に歌を手渡したという逸話が史実だとは確認するに至りませんでした。確かに「蓮月尼全集」には、宮崎半兵衛なる人物の談話として野崎主計の辞世歌と西郷との逸話が紹介されてはいます。ですが、後に芝居などで取り上げられたことを考えると、それが人口に膾炙され事実誤認されてしまったと解釈するほうが自然のように思えます。当然のことながら、歌が江戸無血開城の一因となったというのも創作といわざるをえません。では、何故蓮月尼が野崎の辞世歌を知っていたのでしょう。

尼は野村望東尼のような勤皇の歌人ではありません。しかし、決して時勢や政治問題に無関心であったわけでもありません。おそらく、養育していた富岡鉄斎が傾倒していた梅田雲浜とも交流があったのでしょう。野崎主計の歌は雲浜の門人となった弟民蔵を通して尼の下に渡ったのではないかと想像できるわけです。あるいは、主計自身も京で尼と面識があった可能性もなくはありません。(1)

それにしても、野崎主計の辞世歌がこのようなフィクションに取り上げられることになった理由が気になります。私は上記した勝海舟が山岡鉄太郎に託したという手紙の内容に心惹かれました。

”官軍都府ニ逼ルトイエドモ 君臣謹ンデ恭順ノ道ヲ守ルハ 我ヶ徳川氏ノ士民トイエドモ 皇国ノ一民ナルヲ以テノ故ナリ。且皇国当今ノ形勢 昔時ニ異リ 兄弟牆ニセメゲドモ 其侮ヲ防グノ時ナルヲ知レバナリ”

手紙には徳川家の助命を求めるような内容は一切書かれていません。中国の故事を引用して、徳川家の家臣も日本国の国民の一人である。兄弟とは家の中では喧嘩をしても外敵に対しては一致してこれに当たるべきであることを知っているからこそ、官軍が江戸に迫っているのを知りながら恭順しているのだと。

“討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国の御民なりせば”

野崎主計の歌とどこか同じ響きを持った内容ではありませんか。確かにこれが史実ではなくお芝居であるなら、勝海舟と西郷隆盛という英雄が二人だけで大仕事をやってしまったいうのでは何だか決まりすぎていて面白みに欠けると思います。しかし、名もなき勤皇の志士の残した辞世歌が西郷の心を動かしたというエッセンスが入れば、そこには一層大きな感動が生まれるような気がします。案外、逸話の元ネタはここら辺にあるような気がしてなりません。と言ってもあくまで私の想像にしか過ぎませんけど。

野崎主計が十津川郷士を引きつれ天誅組に参集した前日の文久三年八月二十四日、主計と同様に郷中の庄屋である玉堀為之進は義軍に参加する前に、事の真偽を確認したいと中山忠光らと議論しましたが、退けられ反逆者として斬首されています。彼は藤田東湖の門弟であり、やはり勤皇の志士であったのです。後に十津川郷士は朝廷より罪罰の対象から外されましたが、主計の中には自分だけが生き延びるわけにはいかないという士としての責任が心に大きく占めていたのでしょう。

”命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり。”(南洲翁遺訓)

一説には山岡鉄舟のことを西郷さんが話した言葉だと言われていますが、真偽は定かではありません。むしろ、私は野崎主計や玉堀為之進のように維新の大業を前に死んでいった名もなき人達にこそ当てはまるような気がします。

(1)梅田雲浜は安政六年(1815年)九月、安政の大獄により獄中死している。

”君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり”

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