郡長正 会津の誇りだけは汚すことが出来なかった青年藩士を慰霊する

ゴールデンウイークの5月1日、午前中は昨日の雨も上がり、薄日が差す穏やかな日和の中、みやこ町豊津の甲塚墓地で、会津藩士:郡長正の142回忌墓前供養祭が厳かに執り行われ、みやこ町井上町長はじめ行政関係者や豊津郷土史会会員の方々が列席し、墓前に焼香して故人の供養をしました。(2012.5.2 京築ナビ)

明治四年五月一日、斗南藩から小笠原豊津藩校育徳館へ留学していた郡長正が自刃した。長正は会津戦争の責任を取って切腹した会津藩家老萱野権兵衛長修の子である。自刃の原因は不明だが、一説には寮内の食事が口に合わない事を書いた手紙を豊津藩子弟に見られたことによるとされている。一方でそれは後世の創作であるとする説もある。しかし、豊津や会津の伝承では定説として浸透してしまっているようだ。

食事の件を手紙に書き、それを読まれたことが長正自刃の直接の原因であったのだろうか?

私が長正のことをはじめて知ったのは中村彰彦氏の歴史短編小説「第二の白虎隊」でした。氏は幕末から明治にかけての会津藩士を題材にした多くの著作を手がけています。そのため、読後この小説も史実をもとにしたものだろうと思っていました。

ですが、現在「郡長正」を検索してみると上記の件は後世の創作であるとしているサイトが実に多くあることが判ります。おそらく、その元になっているのがWikipediaの「食糧事情を母親に報ぜんとした手紙或いは母親からの返事が拾得されたとの説があるが後世の挟間祐之の創作である。」でありましょう。

昭和16年発行の狭間祐行『会津戦争』と笹本寅『会津士魂』の著書に通説となっている上記の件が書かれているそうだが、私は両著とも読んだことがないため具体的にそれが創作であるという根拠が何であるかは全くわかりません。刊行された時期から、戦時下の国民に対する国威高揚のために長正が利用されたと指摘する意見もあるようです。

中村氏は99年角川書店が発行した「還らざる者たち-余滴の日本史」に「郡長正、一切弁解せず」という歴史エッセイを書いていますが、そこでは戦前豊津中学校長を務めた中村亀蔵なる人物が「福岡県立豊津高等学校七十年史」に長正が母たか宛てに書いた手紙の中で『こちらは食べ物が不味くて困ります。』という意味のことがほんの付けたしたように書かれていたと述べたことが書かれています。また、「歴史読本」01年9月号の「郡長正の自刃前後」には中村亀蔵談話を前書より詳細に、更に昭和49年6月1日に豊津高校図書館の旧藩時代からの古文書館小笠原文庫に納められた「郡長正の話」を紹介している。(1)

文庫に納められた史料は四百字詰原稿用紙20枚程度のガリ版刷り印刷物で、豊津高校OBで郡長正研究家である柏木隆之助氏の提供であるという。当時、旧小倉藩士で豊津郊外で村長のような存在であった河村元造が後世に長正の話を伝えるために語り残したもので、文書は「河村文書」とも呼ばれている。

そこには長正の母親への手紙が拾われた時の藩校内の状況や、問題が発覚した際に取り交わされた他の斗南藩留学生達との会話が書かれている。校内に問題が大きく広がったため、長正は河村元造に預けられ矢留浦にある目付小笠原伊豆の役宅に身柄を移された。その後、生徒達の動揺が鎮まったため、15日後に長正を寮に戻したが、直後に事件が起きてしまったとしている。河村は翌五月二日早朝、家の前を通る学生が「やった、やった、会津がやった」という叫びで異変に気付き寮へ急いだが、すでに遺体は留学生6名に棺桶に入れられ、甲塚墓地に埋葬された後だったということだ。

豊津や会津では今も上記した説こそ真実であると考えている人のほうが多数を占めているようです。狭間と笹本の両著が仮に信憑性のない書であったが故に創作説という上塗りがされてしまったとしたら残念です。どちらにしても、確たる証拠が陽の目を見なかったこと、あるいは流布しなかったことが真実と創作を曖昧にさせてしまった一番の原因ではないかと私は考えます。

しかし、2003年鵬和出版より刊行された宇都宮泰長氏編著「会津少年郡長正、自刃の真相」はこの問題に一石を投ずることになりました。著者である宇都宮氏は、当時豊津藩で斗南藩留学生の教育掛であった中川三郎の子孫だそうで、氏が先祖から語り継がれてきた話はこれまでの自刃の通説を覆すものでありました

 その内容は、長正が幕末第二次長州征伐時に小倉藩が城を焼き捨て逃亡した件で他の留学生と口論になり、その時仲裁に入ったのが中川三郎であった。中川は長正が小笠原家を汚す発言をしたことで以下の話を留学生達に聞かせたそうだ。それは、会津戦争後に投降した会津藩士達を東京へ護送する任を請けた小笠原家では、彼らを決して罪人として扱うことはなかった。それでも脱走する者が後を絶たなかったため大変な役目を承ってしまったという。そして、君達まで当家に迷惑を掛けるつもりなのか、と留学生達を諭したそうです。長正はこれまでの豊津藩への誹謗を恥じ、小笠原家に感謝し切腹したという。

 私は決して宇都宮氏の著書を否定するつもりはありませんが、人というのは後から出された新説に真実とか真相という文字を見ると、これまでの説が何となく曖昧さを帯びてくるものではないでしょうか。通説であった母親への手紙の件に関して、氏は当時はまだ郵便制度がなかったため、会津と豊津との手紙の往復は不可能であったとしています。しかし、当時母親のたかは東京大久保の松平家で養われていたので、たとえ郵便がまだなかったとしても文の往来は江戸期同様に可能であったと思われます。

 現在、この新説こそ長正の自刃の真相であると考える人も多くなってきているのではないでしょうか。確かに、留学生の身近にいた人物が後世に残した話となればその信憑性は高いはずです。しかし、「河村文書」の河村元造も同様に事件が起きた当時長正の身近にいたわけですから、これを完全に否定するのもどうかと思います

 実は新説の中で長正は自刃する際、「小笠原の殿様に申し訳ないことをした」と
言い残しています。
 一方、通説である「郡長正の自刃前後」の中で中村亀蔵は長正の切腹理由として、「殿様の名折れとあっては申し訳ない」と自身が考えていたとあります。著者である中村彰彦氏はこの殿様を前後の文脈から松平容保公か容大公ではないかと書いています。ですが、中村亀蔵は豊津の人ですから、この時の談話の殿様は小笠原忠忱公と推測したらどうでしょう。二つの説に小さな共通部分が生まれ、事件直前の大きな重要部分が重なると考えられるのです。

 私は二つの説がどちらも白黒つけがたく、仮にどちらも白であったのなら、これは真相としては一層重みを持つのではないかと想像してしまいました。新説の中川三郎の話から長正の心に小笠原家に対する負い目が重く圧し掛かっており、やがてそれが手紙の件で自刃への切欠となったのではないかと。この事件は談話として後世に伝えられている部分が非常に大きいのですが、実際は藩校で起きたことから当時は藩公文書に記録されたと思うのです。事件の記録が今後発見されないとは決して云い切れないのです。ぜひ旧家の奥か資料庫の片隅で未整理の史料として眠っていることを期待しつつ、いつか真実が明らかになる日が来てほしいものです。

 郡長正は自刃直後から豊津の人々に墓所は大切にされ、当地の人々の記憶に士魂を刻みつけた若者として今日まで語り継がれていることなど枚挙に暇がありませんが、他の多くの方も書いていることなのでここでは省くこととしました。一応、私の勝手な想像もまとまりがついたようなので筆を置きたいと思います。 

(1) 福岡県立豊津高等学校の前身は豊津藩校育徳館である。明治期に私立育徳学校、県立豊津中学、戦後県立豊津高校をへて、2004年より福岡県立育徳館高校として現在に至っている。開校70年を記念し、会津若松市より萱野家の墓石の一部と若松城の茶室の庭石が贈与され、郡長正記念庭園を整備している。

福岡県立育徳館高校のサイトに郡長正記念庭園が紹介されています。明治三年豊津へ留学する前に写したとされる長正の写真も掲載されています。

http://ikutoku-h.fku.ed.jp/html/guide/nagamasa/nagamasa.htm

中村彰彦氏の「郡長正の自刃前後」は講談社文庫「名将がいて、愚者がいた」に収録。

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