仙臺まつり 甦る仙台っ子の誇りと夢、往時の絢爛豪華を伝える青葉まつり 

東日本大震災からの復興の願いを込めた第28回仙台・青葉まつり(まつり協賛会主催)は最終日の20日、仙台市中心部で「本まつり」が行われ、藩制時代の栄華を伝える「時代絵巻巡行」が繰り広げられた。(2012.5.21河北新報)

承応三年(1654年)三月、着工以来四年七ヶ月の日数と総工費四万二千四百九十六両を費やして仙台東照宮は落成した。御神体は束帯木造坐像の徳川家康で京の大仏師左京法橋幸和が制作、上野寛永寺最教院で点眼供養を行い、神輿は三月六日江戸を出立し十六日着。それから三日間の遷座式、十九日に社頭で喜多流二世十太夫らによる法楽の能が行われた。この時、仙台藩二代藩主忠宗公は毎年九月十七日を祭日とし、藩主在国の年に城下十八ヶ町の商人町に祭山車である山鉾を出すよう布令を発した。これこそかつて仙台城下の全士民が熱狂した仙臺まつりのはじまりである。(1)

『本まつり当日政宗公に扮した伊達家十八代当主泰宗氏が騎馬で登場すると、沿道の観客から一斉に歓声が沸き起こった。』

昨年の大震災をうけて2年ぶりの開催となった仙台・青葉まつりですが、その前身が仙台東照宮の祭礼であることは多くの人が知るところでありましょう。しかし、その起源である仙臺まつりとは如何なるものであったかとなると、これを知る人は意外に少ないのではないでしょうか。明治32年の仙台開府三百年祭を最後に歴史の幕を閉じた仙臺まつりですから、実際に目と耳で経験したという方は皆無のはずです。私達がそれを知る手がかりとなるのは語り継がれてきた昔話や文献でしかありません。

仙臺まつりが具体的にどのような祭りであったかを私が知ることが出来たのは、郷土史研究家である三原良吉の著書「仙臺郷土史夜話」からであります。この本は書店でありながら、宮城県の郷土誌も出版していた宝文堂が発行したものです。宝文堂書店は平成19年に惜しまれつつも閉店してしまったため、現在この書を目にするためにはわずかに古書として発売されているものか、あるいは図書館だけとなってしまいました。読むための方法が全く閉ざされてしまったわけではありませんが、市民にとって大切な歴史を学ぶ機会が限られてしまったことは残念としかいいようがありません。さらに、現代の私達が知る見る聞く行為に対して、最も活用頻度が高いネット上にも「仙台まつり」というキーワードからその具体像を確認することは難しいようです。

氏の著書はいち地方の郷土誌という括りになるのかもしれませんが、それでも政宗公が開府した歴史ある仙台という街の知られざる一面を学ぶことが出来る貴重な一冊であると私は確信しています。幸運にもそれを一読する機会を得られた私は、稚拙な文章ながらもwebに文書を公開していることもあり、氏の著書を参考に仙台城下の人々が誇りを持ち楽しんだお祭りがどのようなものであったかを書かずにはいられなくなった次第であります。

『上/政宗公の御霊を乗せた神輿を見守る青葉神社の宮司は片倉小十郎の子孫片倉重信氏。下/騎馬の政宗公に伊達家家臣団300人が続く。』

仙台・青葉まつりでは山鉾の巡行以上にすずめっ子達による華やかな踊りが祭りの主役となっていますが、仙臺まつりの主役は紛れもなく山鉾であることは間違いありません。実は私もはじめて知ったことだったのですが、当時の仙台ではオマツリとは祭礼を意味するのではなく、山車そのもののことを呼んでいたそうなんです。現在の山車は京都祇園祭りと同じ車輪のついた引きマツリですが、当時は御みこしのような担ぎマツリだったのです。(2)

個々に千差万別であるオマツリですが、基本的な形式は台輪というケヤキをタメ塗りにした組立て式の枠の中心に柱を立て、これに張子の山や家形を作り花樹や人形を立てて飾り付けていたものです。この人形は顔や手足を木彫りとし胡粉を塗った木目込みで江戸一流の人形師久月に制作させていたそうです。人形の高さは八尺位(約2.42m)もあり、これに唐織や錦の衣装を着せてありました。山鉾のテーマは孟母断機、司馬温公瓶破、新田義貞海中に太刀を投ずるといった和漢の故事や、政宗公権中納言を賜うや支倉常長ローマより帰朝といった郷土史の人物など様々でしたが、いやしくも東照宮の神輿の先駆となる山鉾でしたので、現在同様に教育的な主題に限られていたはずです。

記念すべき第一回の大祭は明暦元年(1655年)、以後一ヶ年おきに三回十八ヶ町から一斉に山鉾が出た。四代綱村公の治世寛文元年(1661年)からは十八ヶ町を三組に分け、六ヶ町で一年おきに変更された。これは上記したように山鉾が余りに豪華だったため、商家で負担に耐えられなくなったためとされている。ちなみに、オマツリ1台の費用は大きいもので三千両を要したという。(3)これを三度続けて出すと富裕商家でさえつぶれたといわれた。それでも、家康を祀る東照宮の大祭は幕府に対しての恭順策でもあったので、藩は官の祭として商家の営業を査定した後に何人担ぎの山鉾を出すよう命令書を与えた。この際、あまりに負担が大きすぎれば嘆願することもできたが、オマツリを出すこと自体を誇りとしていたため多少のことは意としなかった。これは平素、城下町人に特権を与えて商業を保護していたからで、富裕商家としても文句を言うわけにはいかなかったのである。一方、何万という祭見物客が城下へ殺到するため、小売商人に落ちる金は莫大なもので、城下質屋の土蔵が空になるのが通例だったとされている。(4)

『【時代絵巻巡行】では先駆けの山鉾の後に政宗公の御霊を乗せた神輿が登場。古式に則り白装束、烏帽子姿の氏子たちで渡御するのが特徴である。』

私が前回青葉まつりを近くで見たのは十数年も前のことだ。現在とは比較にならないほど規模は小さかったと記憶している。もちろん、山鉾が登場したり、すずめ踊りに参加する方たちが飛躍的に増えたりといった話は聞いてはいたが、これほど豪華でにぎやかになっていたとは知らなかった。この時期に仙台に来ることが出来なかったというのが悔やまれるくらい驚いたというのが本音です。なにしろ各地のお祭で武者行列は盛んに行われていますが、政宗公や片倉小十郎の血筋の方々まで登場してしまう本物志向には、単なるコスプレではない伝統と歴史の重みを感じずにはいられませんでした。もちろん、子供たちによるすずめ踊りはかわいいだけでなく、その真剣さと熱気から間近で見ている観客もパワーをもらえること間違いありません。被災地域から参加しているチームもあり、この間大変な苦労もあったと思います。そんなすずめっ子たちの一生懸命に踊る姿は目頭を熱くするくらいの感動を呼び起こしてくれました。

『山鉾の巡行とすずめ踊りの大流しは、ゴールであるメイン会場に隣する青葉茂る定禅寺通りをめざし、ここで祭りは最高潮を迎えます。』

仙臺まつり前夜の九月十六日、各町内のオマツリは早朝に出発し東照宮鳥居前広場で大祭当日の夜が明けるのを待ちます。その間、オマツリは油紙で巻かれ外見は隠されていたそうです。十七日未明、藩主は束帯姿で東照宮を参拝し、厳かに祭祀を行った後国分町の外人屋に入ります。街路に竹に雀の紫の幔幕を張り、いかめしく三ツ道具を立て、麻裃で神輿の渡御を拝した。(5)

東照宮前広場では夜明けと共に巡行が開始される。先頭を行くのは足軽四千二百人十四隊の長である武頭十四人の中から晴れて選抜された栄誉ある一人である。これを先陣武頭と呼び、殿を務める者を後陣武頭と呼んだ。先陣後陣はくじで決められたため、お城から家までの間に隊の足軽を一丁置きに立たせ、城中で先陣に選抜が決定されると「旦那様、お先っ!」と、リレー形式で家族に伝えられた。そして、これを聞いた親戚、知人、近隣の者たちが一斉にお祝いに駆けつけたという。

その先陣武頭は麻裃高股立ちで颯爽と馬上くりだし、供回りを従えて進む。先立ち五人男は黒木綿の綿入羽織を裾長に着て紫木綿の綿入れ大丸クケ紐を胸高に結び両端をピンと反らせて、五人が足を揃えて脛高く踏む。槍持は所々で見事に振り、口取りの所作、草履取りは歩きながら草履を投げ上げて受け取る所作を見せながら行進する。

『奈良屋孟母断機の体。【東照宮祭礼城下渡物行列の図】より』

いよいよこの後から神輿の先駆として、祭の目玉である山鉾の巡行がはじまるのである。その数は多い時で七十台、少ない年でも三十五、六台に及んだ。担ぎ手の若衆は皆藍で染め抜いたウコン木綿長袖のカンバンを裾長に着込み、段だら染めの三尺帯をだらりに締め、手甲、脚半、草鞋履き、祭手拭を鉢巻とし片手に黒塗りの力杖を携える。先頭はオマツリ毎に柏子木を持って、進め止まれを合図する。木ヤリ音頭に合わせて担ぎ手の力杖が揃って上がると、揃いの長袖が一斉に振られる姿が何とも美しかったとされています。

山鉾の巡行は延々と続きますが、それぞれの先頭に町名を記した町印の大旗が進むので、何町のオマツリかすぐに判別できた。そして、これが何十台も両側の家並を圧して続くわけですから、沿道の観客は全く興奮の渦であったそうだ。ルートは時代によって変遷があったとされるが、幕末の頃は宮町から北一番丁を西に、二日町、国分町、大町を西へ、立町から宮町へと通過した。神輿のみは御旅所に入った後、清水小路まで行き東照宮に戻って行く。

藩主の見物する外人屋と大奥の女中たちが見物する大町一丁目日野屋はオマツリの進行方向右側だったので、右側の担ぎ手たちは直接お殿様の御顔を面することができ、これを左肩と称して名誉なこととした。オマツリの左肩を担いだというだけで、嫁取り婿取りの時の身分証明になるほどであった。したがって、左肩は品行方正、なおかつ今風にいうイケメンが選ばれるのが常で、若衆たちのあこがれであった。

藩の後ろ楯があった仙臺まつりも、当然のように明治維新以降転機を迎えました。何より開催の期日がかわったのはいうまでもありません。明治四年は天長節奉祝に行われ、市内十九ヶ町から二十四台のオマツリが出された。翌五年には伊勢堂山から桜ヶ岡公園に遷宮した神明宮の奉祝に十九ヶ町から十九台が、明治十五年には新たに社殿が完成した青葉神社祭礼に九台出ている。廿年には戊辰、西南の役戦没者招魂祭に廿ヶ町から廿台が出て大変盛況だったという。この後は招魂祭にオマツリを出すというのが慣例となり、二十一、ニ十二、二十三、二十四、二十五、二十八、二十九年と出ている。この間、商家にも消長があり、昔の侍丁から商店街に変わった東一番丁、名掛丁、新たに遊郭として誕生した常盤丁などからも出し興味深い。

最後に私見となるが、昭和57年に他界した三原良吉も昭和60年に行われた第一回青葉まつりの概要くらいは知っていただろうか。生前に全国専門店会総会のパレードなどを見て今昔の感に堪えないともらしていた氏も、近年これほど華やかに変貌した今のまつりを見たとしたら、多少なりとも満足することができたのでないかと思いたい。結論からいえば氏の申すとおり、仙臺まつりとは京祇園祭のコピーではあるものの、本場をはるかにしのぐものであった。そして、仙台っ子たちに誇りと夢を与え続けるものであったことも間違いない。それは、今日に続く仙台・青葉まつりにも確かに受け継がれていることを、私は身をもって感じることが出来た。

(1) 全国の東照宮の祭礼は4月17日と決まっているが、仙台藩では農家の繁忙期だっためにずらしたとされている。仙台の手まり唄に「九月は九月は稲の刈上げ刈り納め、仙台オマツリ賑わしや賑わしや」とあるよう、9月17日は稲刈りも終わり祭り見物に都合が良かったのである。

(2)藩庁ではこれを渡し物と称し、民間でオマツリと呼ばれていた。

(3)一概に比較することは出来ないが、江戸庶民と現在のサラリーマンの年収から換算すると三千両は約6億円に相当する。

オマツリは最大のものが72人担ぎで控えが36人付添い、最小が16人担ぎ控え8人という規模であった。重量は中位32人担ぎで千二百貫(4.5t)もあった。各町の担ぎ手は近在の嫁取り前の若者達で国分町は根白石、大町ニ丁目は高館と毎年決まっていた。

(4)当時のお店のひさしの下は小前下という土間になっていて、ここが沿道の見物席となっていた。東照宮の門前町である権現町(後の宮町)などでは、縁側、土間のはてまで宿を貸し、丸太を玉切りにした木枕を賃貸し、女たちは赤飯、お煮しめの類を売り、これで一年分の小遣いが稼げたという。なお、商家18ヶ町を3組に分けた組合せは以下の通りである

①大町一・ニ丁目、国分町、肴町、北鍛冶町、北材木町、田町

②大町三・四・五丁目、二日町、荒町、北目町、立町、南染師町

③南町、新伝馬町、柳町、河原町南材木町、穀町南鍛冶町、元材木町

(5)国分町外人屋(現仙台市青葉区国分町1-7付近)は奥筋諸大名の江戸参勤の旅籠である。戊辰戦争時に榎本武揚、土方歳三らが宿泊したことでも有名である。

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