和田因幡と居具根と黒松と

県は6月、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた県内の海岸防災林の再生に着手する。仙台湾沿岸に広がっていた防災林の起源は約400年前、仙台藩主伊達政宗の時代にさかのぼる。県は、発祥の地とされる七ケ浜町で6月16日に植樹イベントを開き、白砂青松の復活へ一歩を踏み出す。(2012.5.30河北新報)

慶長七年(1602年)夏、落成した仙台城下は伊達家家臣団だけでなく、岩出山の商家もそっくり移って来たため、その人口は五万二千という過密さで藩祖政宗公は食糧の調達と輸送を何よりも急務とした。公は北上・迫・江合の三河川を連絡させ石巻への船運と灌漑の基礎を作った元毛利家家臣で関ヶ原で浪人した川村孫兵衛重吉や、石巻渡波から山元まで十五里の海岸防潮林を完成させた大和の和田因幡為頼らインフラの専門家を高禄で藩に召抱え、領内の開発に着手させた。

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『大和神社の敷地は児童公園でもあり、震災前までは子供たちの笑い声で溢れていた。』

震災後、はじめて和田新田の大和神社(現仙台市宮城野区蒲生)に来て見ました。すでにこの辺りは災害危険地域に指定されているので、津波による倒壊を免れた住宅が無人のまま放置されている以外は昨年のうちにほとんど更地となってしまいました。人影もなく蒲生干潟まで広がる荒涼とした景色を見るのは心が痛みます。幸いにも神社は流されることはなかったようで、織部為泰の供養碑とともに無事な姿を見ることが出来ました。

大和神社は藩制期に蒲生1800石代々の領主であった和田家の屋敷跡に建っています。震災前までは敷地内に町内の集会所があり子供達の珠算塾などもひらかれていました。現在は治安維持のためか派出所が置かれ赤いサイレンが終日回っておりました。その仙台和田家初代当主が政宗公からスカウトされた因幡為頼であります。

話は政宗公が藩制の整備と領内経営に力を振るっていた元和の頃、実をいうと仙台には杉の良材がなかったそうなんです。そこで公は山林奉行の和田因幡に紀州熊野より杉の苗を大量に取り寄せさせました。そして、それらを村々で苗甫を造らせ栽培させたのです。また、公は苗甫には番人を置かないようにも命じたそうです。村人には珍しい杉苗だったので、番人がいないのをいいことにこれを盗み出すのは当然の成行きでした。杉苗が盗み放題という噂を聞きつけた仙台の民は各地の苗甫から苗を盗んでゆき、仕舞いには苗甫が空っぽになってしまったそうです。さすがに山林方の役人たちは腹に据えかねて奉行衆に訴え出ましたが、政宗公からは「かまうな」の一言。

それから十年後、公は村々に黒印を押した条目を出しました。「今より後自分屋敷たりとも無断に杉を伐り候者は屹度重科に処せらる可し」。お百姓たちにとっては一文の日当も貰わずに杉苗を藩のために栽培するかたちとなったわけです。やがて、百姓屋敷の杉の木は年とともに見事に成長していき、仙台平野や名取耕土にさながら島のような景観をつくり出したのです。これこそ仙台領の居具根林(屋敷林)の起源だといわれています。

さて、仙台城下東南から太平洋にかけての一帯は当時、海岸林もなく葦や真菰の群生する湿地帯が広がっていました。政宗公はこれを干拓して水田に出来ないかと思案します。前述した川村重吉に阿武隈川と名取川を結ぶ木挽堀(貞山堀)を開削させましたが、用水路だけでは米は作れないことを公は熟知していたと思われます。海岸防潮林をまず作って土地に対する塩害を防ぐことが肝要だということを。そこで、再び和田因幡に命じて遠州浜松より黒松の種を取り寄せることにしたのです。

元々仙台には黒松がなかったわけではありません。ご存知のように名勝松島の松は赤松ですが、黒松も自然にあったようです。しかし、政宗公は東海道沿いの三保の松原などを自身で見て、これはちょっと違うぞと感じていたのかもしれません。公は為頼の出発に際して、積荷を載せた船を宇多郡原釜(現福島県相馬市原釜)に着けるようにし、更に乗込んでいた者たち全員を一人残らず陸に上がるよう命じました。やがて、黒松の種を満載した船が帰港し、公の命ずるまま港に船を放置することに。例にもれず夜毎相馬のお百姓や漁師たちは番人のいない船から黒松の種を俵ごと盗み出していき、ついにはせっかく買付けた種を一俵残らず盗まれてしまったのです。

役人には政宗公の真意が全く解らず、ともかく注進に及んだところ公は、ではもう一度浜松に種を買付けに行けと。ただし、今度は船をゆりあげ浜(現宮城県名取市閖上)に着けよと申されたのです。そして、買付けた種を俵ごと馬に括り付け、そこに小さな穴を開けて海岸を歩かせ種を蒔いたのです。政宗公は黒松の種が芽吹いた頃、相馬領の者が越境して若木を持ち去ってしまうことを見越して、先に敵さんに種を進上したということです。

相馬家は関ヶ原の役では中立の立場を取っていたことと、相馬義胤が石田三成と入魂の間柄であったため一時改易の沙汰が下ったが、後に旧領を安堵されている。巷説ではこの時伊達政宗の口添えがあったためとされているが、実際は逆の立場で相馬領を関ヶ原の報償として伊達家に組み入れられるものと考えていたようだ。あくまで想像になるが、政宗公が相馬領に執着していたとしたら、いずれ自分の領土にすることを踏まえて黒松の種を盗ませ栽培させた可能性もある。(1)

防潮林の有用性は海岸地帯の水田の塩害を防ぐだけでなく、東日本大震災による津波の被害を弱める効果もあったことが証明されています。和田因幡がかつて完成させた黒松の防潮林も津波により根こそぎ流されてしまいましたが、現在それを復活させようという動きが各地で出はじめています。もちろん、それは同じ黒松による防潮林です。そして、私は確信しています。仙台の海岸線に延々と続くあの黒松の並木を見られる日が再び来るに違いないことを。

(1)「子細モナク御知行ヲ相馬アタリニテ此度不被下 ケツク相馬ナドニ御カエシ被成候ハ 行末々何カト御用心ト見へ候」(茂庭石見綱元への手紙)

参考資料

「仙臺郷土史夜話」三原良吉、平成23年度宮城県森林審議会議事録、2012年6月1日共同通信

追記

防潮林に145万本植樹 亘理・住民参加プロジェクト始動(2012.6.15河北新報)

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