ウィホーケンの決闘 ガンファイトの先に待っていたものはただ死と虚無だけだった

アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘を行なった日。 二人は法曹界に於いて長年のライバルであった。アレクサンダー・ハミルトンは1792年の大統領選挙でのバーの副大統領候補選出への希望に反対し、またバーが准将に任命されるのを防ぐためにワシントンを通じて影響を及ぼした。(2012.7.11歴史人.jp)

現代社会において、決闘は法的に禁止されている。だが、当時は自らの名誉を賭けて果たし合うことは合法とされていたのだ。徳川幕藩体制下の日本でも、喧嘩両成敗という条件の下で同様であった。1804年7月11日に行われたハミルトンとバーの決闘も残された記録を見る限り、立会い人を立てての合法的な決闘であったと考えられる。しかし、検屍陪審は勝者のバーに対してハミルトン殺害の評決を下したため、二つの州から殺人罪の宣告を受けることになってしまった。

ところが、現職副大統領であり上院議長であったバーは三ヶ月後に連邦議会が開催されると、何事もなかったように議会に現われ議長席に着いた。そのまま残された任期を全うしたところをみると、決闘自体になんら違法性はなかったとも考えられる。

『 アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バー 』

アレクサンダー・ハミルトンはアメリカ合衆国建国及び憲法制定に関わった指導者たち、いわゆる建国の父の一人である。初代大統領ジョージ・ワシントンの下、財務長官として実務を切り盛りした政権の中心人物であった。

建国当初のアメリカは広大な大自然に根ざした農業を基幹産業とした社会を理想と考える立場と、イギリスの産業革命を模範に、それを超えるべく商工業で立国する政策を重視する立場の考え方が対立していた。前者の代表が同じ政権の国務長官であったトマス・ジェファソンであり、後者がハミルトンであった。この対立はやがて決定的な溝を作ってしまいジェファソンは政権から離脱し、野党リパブリカンズ(民主共和派)を結成することになる。(1)

ワシントン退任後、その大樹の陰を失ったハミルトンは政敵であったジョン・アダムズから遠ざけられ、自らが大統領になるという一期は遠のいてしまった。

一方、アーロン・バーはニューヨークで弁護士、検事総長を歴任し連邦上院議員に選出されている。1800年の州議会選挙で手腕を発揮し、政権与党である連邦派一色であったニューヨークでジェファソンの民主派を勝利に導いた。ジェファソンはバーを信頼していなかったが、96年の大統領選で敗北したニューヨークを得た功績に対して、彼を副大統領に公認した。だが、01年の大統領選の開票の結果ジェファソンとバーは同数の票を獲得していることが判明した。民主派としてはジェファソンを大統領とし、バーを副大統領というのが当初からの党の方針であったため、バーも争うことなく大統領の椅子を譲ることとした。

しかし、就任したジェファソンはバーを冷遇した。次第に政権内で孤立してゆくバーは、ジェファソンとの和解にも失敗し、次の大統領選では副大統領への公認も得られないことを悟り民主派を去ることを決意した。そして、副大統領のポストについたまま、ニュー・ヨーク州知事選挙に出馬したが、民主派の擁立候補に負けてしまった。この選挙戦の最中マスコミを使いバーを誹謗していたのがハミルトンだと思い込んだようだ。ハミルトンが大統領選の時もバーの就任を妨害していたという前歴があったため、彼を激しく憎悪し謝罪を要求したが、結局ガンファイトでの決着を要求した。

『ウィホーケンの決闘(1804.7.11) 決闘がおこなわれたニュージャージー州ウィホーケンは奇しくもハミルトンの息子が父の名誉をかけて決闘し敗れた場所であった。』

バーは副大統領退任後、国家反逆罪で告訴された。それはアメリカ西部を分割しメキシコ(当時スペイン領)を統合させてニューオリンズを首都に新たな国家を立ち上げるというものであった。駐米イギリス公使にその資金と軍事の援助を申し出たとされている。しかし、裁判では有罪を立証できるだけの証拠が欠しかったため、判決は無罪であった。

ウィホーケンの決闘はお互い大統領の椅子にわずかに手が届かなかった後、人生の下り坂に差し掛かったところを一気に転げ落ちてしまった二人の結末のようにも思える。ハミルトンは財務長官辞任後も弁護士として政界への影響力を保っていたので、決闘で死ななければその後の人生で再起する可能性がなかったとはいえない。実際、かつて対立したジェファソン大統領はバーよりもハミルトンの起用を考えていたからだ。

正式な手続きの下で決闘に勝利したにもかかわらず、バーの人生も好転したようには見られない。詳細は判らないが、自身の中に大統領への野望がそのままくすぶり続けていたのかもしれない。たとえ反逆者となっても、新しい国家を建設し己の野心を満たそうとしたのだろうか。その結果、現代においてさえ彼を America’s worst vice presidents(アメリカ史上最悪の副大統領)と揶揄させることになってしまったのだ。

(1)ワシントンは超党派を自認していたが、ハミルトンの経済政策を支持していたことから党派間の抗争に巻き込まれ、個人的な批判にまで晒されることとなった。この間二度の大統領再選を果たしていたが、三選出馬は拒否した。これにより、現在も続く大統領二期八年という前例が作られることになった。

参考文献

歴代アメリカ大統領総覧 高崎通浩

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