新海竹太郎と北白川宮能久親王騎馬像

忘れられた天海の廟所

色づいた山々の紅葉や歴史散策を楽しむ人で賑わう日光の社寺。世界遺産に登録されているのも然ることながら、観光シーズンには普段見ることが出来ない貴重な文化財も特別公開され、世界中から旅行客が足を運んでくる。だが、同じ寺域でありながら、ほとんど人が訪れることのない史跡も存在している。それは豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏に力添えしたため、寺領を没収され衰退していた輪王寺を復興させた天海の廟所慈眼堂周辺である。

天海というと、「国家安康」という方広寺の鐘銘で豊臣家に言いがかりをつけて、大阪の陣を勃発させた張本人というイメージがあるが、ここでは今日の繁栄の基礎を作った恩人として、日光の人にしてみればお墓に足を向けては寝れない存在であろう。

その慈眼堂であるが、現時点では立入りが禁止されている。立入り禁止だから人がいないのか、人が訪れないから立入り禁止にしたのかは判らないが、三代将軍徳川家光公の廟所大猷院の手前、法華堂山門をくぐり墓へ続く延命坂の手前には立入り禁止の立札が通行を阻んでいる。確かに、二社一寺からは離れていることや、濡れた落葉で石畳が滑りやすく危険そうな坂道を登らなければならないなど観光客が好んで見学に行くような場所ではない。確認のため、大猷院入口でモギリをしていた住職に聞いてみたが、答えは同じであった。

そこで輪王寺の管理事務所にも問い合わせてみたところ、延命坂への通行は禁止であるが、二荒山神社へつづく西参道から車で山へ上がって行ける道路沿いにある駐車場からなら、慈眼堂の外観は見ることが出来ると言われた。道路は食事処から上がれる一箇所しかないため、間違うことはない。しかし、道幅は車一台分くらいしかなく、しかも急坂で九十九折の山道はかなり危険であった。到着した駐車場は以外と広く、かつては観光客を受け入れていたと思われる切符売りの小屋が残されていた。

そして、私が目的としていた建物もその駐車場の目の前にあった。それは慈眼堂ではない。明治、大正の彫刻家新海竹太郎が制作した北白川宮能久親王騎馬像の木造原型を納めた泰安殿である。

軍人から彫刻家へ

新海竹太郎は明治十九年(1886年)、故郷山形から陸軍士官を志望し上京したが、候補生試験に失敗したため、近衛騎兵大隊に入営した。彼は当時を振り返って、自分は美術観念などとはかけ離れていたし、ましてや彫刻の趣味風情など夢にも見たことがないただの若き兵士だった。

ところが、「一たび画馬の霊に触れて、(中略)神聖なる美の天女は、忽ち彼蒼より来降し玉ひ、其香ばしき温かき活きたる息を、此男(自身)の身に吹き込み玉ひぬ、この一刹那に、朴訥なる一兵卒は死して、一個の美術家と生れ代れり」

回想の中で、彼は人変わりしたように彫刻家に変貌したと語っているが、実家は仏具を扱う商家で、子供の頃仏師から彫刻を習っていたため、その素養があったとも語っている。

竹太郎が彫刻家として目覚めたのは、近衛騎兵大隊の一兵卒であった頃だ。手のひらに収まる小さな馬の木彫りを作ってみたところ、これを見た獣医官を驚かせ、上官が仏国より持ち帰ったブロンズ製の馬を模刻したら原物より優れていると隊内で評判になってしまった。やがて、大隊長渋谷在明もこの噂を耳にし、彼に同郷人である後藤貞行を紹介してくれた。後藤は以前記事にもしたが、軍人から馬専門の彫刻家へ転身した人物である。この当時、高村光雲の薦めで東京美術学校の雇教官となっていた。

明治二十四年(1891年)、騎兵大隊を満期除隊した竹太郎は後藤の下に弟子入りし、高村光雲を主体とした「楠公騎馬像」の彫刻家の一人として、騎馬部分の制作に携わっていた後藤の助手を務めている。竹太郎は岡倉天心の愛馬「わかくさ」に甲冑と太刀で騎乗し、楠木正成のモデルになったことを回想している。この4m近い巨大騎馬像の制作現場での作業に携わったことが、後に竹太郎自身が完成させる騎馬像の出発点になったことは言うまでもない。もちろん、それこそが「北白川宮能久親王騎馬像」である。

『東京都千代田区北の丸公園内にある「北白川宮能久親王の銅像」』

竹太郎の代表作

明治二十六年に完成した楠公騎馬像だが、竹太郎はその間に「小松宮彰仁親王夫妻騎馬像」を完成させている。これは60cm程の木彫の像であるが、現在彰仁親王騎馬像のみ靖国神社宝物館である遊就館にて展示されているので見学することが可能だ。小松宮と北白川宮の二体の騎馬像を見比べてみると、明らかな違いが判る。それは躍動感、あるいは像に吹き込まれた生命力の差と表現して良いかもしれない。言葉は悪いが、彰仁親王騎馬像は上手ではあるが、お土産の置物のような印象を受ける。

一方、東京国立近代美術館工芸館(北の丸公園内)横に設置されている能久親王騎馬像は右手に双眼鏡、左手の手綱で体を後ろにそらしながら馬を操る場面を見事に捉えている。まるで、親王が存命されていた時間の一瞬をそのままこの像に凝縮したような、ブロンズでありながら血が通った暖かさを、そんな錯覚さえ覚える。もっともそれこそ、本物の芸術家が創り出す作品と言えるのであろうが。(1)

竹太郎も、「この銅像は自分にとって大いに記念す可きもので、貧弱ながら彫刻家として今日あるは全くこの銅像のお蔭である。其れ以前に作ったものは素人細工に過ぎない」と、自からの代表作であると同時に彫刻家として自立出来た作品だとしている。

小松宮彰仁親王像の完成から北白川宮能久親王像の木彫雛形の完成までは約6年もの時間の開きがある。天分の才能、精進の結晶、その力量の差を明らかにするには全てが当てはまるであろう。それでも、現し身の如く能久親王像を創造することが出来たものは何なのか。

親王のお側に寄添い

能久親王は幕末、奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍と対立した輪王寺宮の方が名前が通っているかもしれない。皇族の方々の中で、親王も歴史に翻弄された人生を送った一人であったと言える。戊辰戦争後、京で謹慎の後に欧州へ留学。独国貴族の女性と恋に落ち婚約を約束するが、明治政府がこれを許さず破棄させられた。明治二十六年、第四師団を率いて日清戦争に出征。戦後割譲された台湾の情勢が不安定であったため駐留したが、平定直前にマラリアにより台南で薨去された。

竹太郎も明治二十七年に応召され、予備役として近衛騎兵大隊に配属され、大陸から台湾に転進している。その間、能久親王の配下として、馬上常に付き従っていたのだ。それゆえ、言葉に出せない胸の内、人生の憂身を経験した一つ一つの表情、公にされない宮様の本当のお姿を心に刻むことが出来たのではないだろうか。

『人目に触れることもなく、静かに安置されている泰安殿内の木造原型』

黙して多くを語る木造原型

日光山泰安殿の中には入ることは許されていない。そのため、高さのある格子窓から覗き込むことになる。照明設備などもなく建物は多くの樹木で囲まれているため、普段から内部は暗いようだ。私は窓に顔を近づけて中を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。それは能久親王の像といきなり目が合ってしまったからだ。それがつくりものであることは百も承知していたつもりだが、まるで親王の怒りをかってしまったかのように恐縮してしまった。故に、窓から差し込んできたわずかな陽の光の中で、木像の親王が神々しく見えたのは決して偶然ではないだろう。

能久親王は最後の輪王寺宮であった。だからこそ、日光山に眠る代々の輪王寺宮の墓所のそばに木造原型が置かれているのも頷ける。だが、慈眼堂共々再びこの地に多くの人が訪れてくれることを親王も願っているように思える。眼下に広がる二社一寺の賑わいに比べて、ここはあまりに寂しい気がしてならない。

(1)「北白川宮能久親王騎馬像」は明治29年5月に制作を委託され、翌年木彫雛形が完成。その年の9月に東京彫工会第12回彫刻競技会に出品し銀賞を得たが、評価は高くなく美術誌などでは厳しく批判を受けた。それは馬と人とのバランスが悪く、尚且つ品位がないというのがもっぱらの意見であった。竹太郎は明治30年にこれを手直しし、現在の原型を完成させた。

参考文献
「新海竹太郎伝」新海竹太郎、新海竹蔵

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