如春尼 東西本願寺分裂の要因をつくった女性の真実の姿は

戦国大名の織田信長と11年に及ぶ「石山合戦」を繰り広げた本願寺11世・顕如の妻の如春尼(にょしゅんに)(1544~98)とみられる肖像画が、真宗大谷派(本山・東本願寺)の惠光(えこう)寺(大阪市平野区)で確認された。如春尼の肖像画としては2例目で、本願寺の歴史をたどる貴重な資料という。(2012.11.11 YOMIURI ONLINE)

文禄元年(1592)、顕如が病没すると、太閤豊臣秀吉は長男である教如を後継者として指名した。しかし、翌年生母如春尼は顕如が三男准如を後継にするという生前の譲り状を添えて訴え出た。地位を追われた教如であったが、関ヶ原の役に際して家康の陣中見舞いに参じ、後の東本願寺建立の基礎をつくっている。一方、准如は西軍石田三成側につき、西本願寺として幕末まで豊臣恩顧の大名を支持する教団としての色彩を強めた。こうして本願寺は二つに分裂したが、徳川政権下、幕府は一向宗の力を削ぐ目的で東西本願寺両方の存続を許可したようだ。

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『西本願寺が所蔵する顕如と如春尼の連座像(新聞写真より抜粋)』

如春尼が確定していた本願寺法嗣の坐から教如を引き摺り下ろし、本願寺を東西に二分した要因をつくったことは紛れもない事実である。だが、そこに至った経緯となると、信憑性のない憶測まで含めいくつかの説を見ることが出来る。中には、有馬温泉に湯治に来ていた秀吉を如春尼が色仕掛けで説き伏せたなどというものまであるほどだ。

上記したものはあまりにありえないと思われるが、如春尼が少なくと教如よりも准如の方を後継に据えることを強く望んでいたことは間違いない。これは彼女が教如の三番目の内室と折合いが悪かったために、その子供の系統が本願寺を継承していくことを受入れられなかったためとされている。そこで、なんの前触れもなく顕如の譲り状が突如出てくることになる。この原本は西本願寺が所蔵しているが、古来よりその真偽は問題視されてきた。その存在に対して反撥したのは当の教如以上に、彼を取り巻く側近たちの方であった。

秀吉は如春尼の訴えに対して、当初は准如への委譲を10年後とする提案をし、教如もこれを了承していたのだが、教如の家老衆は本来譲り状とはまず自分たちに示されてから後、はじめて明るみに出されるものとし、譲り状がでっち上げであると主張した。自らの裁決に水を差され秀吉が腹を立てたのはいうまでもない。譲り状に従い、直ちに准如に移譲するよう厳命した。

教如の家老たちが贋作であることを主張した譲り状であるが、これは現在学会でもニセモノである確立が高いとされている。使用されている紙や墨は当時のものであるようだが、一番の決め手とされているのは、やはり他の顕如の書状の筆跡とは明らかに違うということがその根拠であるようだ。

さて、このように愛する我が子を後継者に据えようとする如春尼を見てしまうと、どうしても自分の願望のためには形振り構わず策を弄する悪いイメージは拭い切れない。だが、顕如との夫婦仲は至って良好であったようで、二人揃った画が描かれていることからも本願寺への思いは夫と同様であったろう。

如春尼は天文十三年(1544)に太政大臣まで務めた三条公頼の三番目の姫として生まれた。生まれてまもなく一番上の姉の嫁ぎ先である細川晴元が自分の養女とし、1歳であった証如上人の子顕如と娶わせるよう要請した。晴元は天文元年に、当時仏国と呼ばれるほど隆盛を誇った山科本願寺を焼討ちしている。不測の事態を恐れた証如は已む無くこれを承知せざるを得なかった。

当時本願寺は堺港からの日明貿易に出資し、莫大な利益を上げていた。そのため、かつては敵として一向宗を排除しようとした戦国大名たちから借金の申出が盛んに行われるようになった。こうした金銭援助という名目で晴元も縁戚を望んだわけだが、更に山科本願寺焼討を命じた佐々木六角氏の猶子として如春尼を嫁がせ過去の遺恨を強引に帳消しさせてしまっているほどだ。

如春尼の本当の人物像を知るというのは難しいかもしれない。だが、彼女の2番目の姉で武田信玄に嫁いだ三条夫人を見てみると、少しでもその実像に近づけるということはないだろうか。ドラマや小説などでは公家の出であることから信玄とは打ち解けず、更には勝頼の生母諏訪御寮人と何かと比較されてしまう損な役回りである。しかし、元亀元年(1570)、50歳で身罷れた三条夫人の葬儀のなかで、心頭滅却すれば火もまた涼しで有名な快川国師は、「円光の如く、和気春に似たり」と語っている。すなわち、彼女は太陽の光のように輝いた存在で、その人柄は春のようにおだやかであったと。死者への賛美と言ってしまえばそれまでだが、少なくともフィクションのイメージとは異なり、笑顔を絶やさない静かに佇む女性であったようだ。

もちろん、いくら血を分けた姉妹とはいえ性格まで似通っていたろうとは私も思わない。ただ、強引ともいえる教如の追放、本願寺分裂の張本人というレッテルを彼女一人が負おうというのもどうかと思う。これらは確かに如春尼の動機がはじまりではあったろうが、そこには本願寺教団の内部抗争が加わっていたことも確かなようだ。

顕如と織田信長が石山本願寺を巡り10年あまり続いた合戦も、朝廷を通じて大阪からの退去を条件に本願寺は講和を了承した。ところが、教如は顕如が大阪を退いた後も信長に抵抗を続けたため親子は義絶となり、顕如は教如と共に主戦派であった家老衆80余人を破門した。顕如の死後、本願寺を継承した教如はこの破門された家老らを再び側近官僚として召出した。この時、政権を追われた穏健派の家老衆が如春尼を擁して譲り状を偽作したというのが真相とされている。前法嗣の妻であることから、権力の移譲期にその中心にいた彼女はタイミング良く担がれてしまった。これこそ、紛れもない如春尼の真実の姿なのであろう。(1)

(1)教如は天正10年に信長が本能寺の変で斃れた後、後陽成天皇の仲介により顕如より赦免されている。

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