戦国大名蘆名家最後の当主となった蘆名義広の書状が発見される

東根市の旧家の所蔵品を調査していた「東根の歴史と民俗を探る会」は、戦国時代の福島県会津地方の領主・蘆名(あしな)義広(盛重、1575~1631年)の書状とみられる古文書を見つけた。対立していた米沢城主・伊達政宗との和睦を、同盟関係にあった領主に伝える内容。きょう9日午後1時半から東根市の東の杜(もり)資料館で開く同会12月例会で、調査内容を報告する。(2012.12.9 山形新聞)

天正十五年(1587年)、前年にわずか3歳で早世した会津蘆名家当主亀若丸の継嗣問題で、伊達家と佐竹家は自らの血縁を入嗣させるために争っていた。伊達氏は政宗の弟竺丸をその座に着けようと画策していたが、佐竹氏に敗北を喫した。そのため、佐竹義昌の実弟が蘆名義広を名乗り、その結果、伊達氏との対立は決定的なものとなった。

天正十七年、最上義光の取成しで大崎氏を従属させた政宗は、北の憂いを断ち、積極的な攻勢を掛けることで、南奥羽の戦局を一気に展開させた。その最終局面は六月五日、磐梯山の麓摺上原で佐竹・蘆名の連合軍との戦いに勝利したことであった。結果、蘆名氏は会津領から駆逐され、政宗は南奥羽の覇者となったのだ。

今回発見された蘆名義広の書状が本物であるかどうかは、調査を行っている会の方々にお任せするとして、この時期、すなわち(天正十六年)七月二十三日に書状が書かれるに至った、伊達氏がおかれた戦局はどうであったかというと、東西南北全ての国境いにおける緊張は一触即発の状態であった。

政宗は前年春に、北境界線を侵犯する最上義光を牽制するため、大宝寺義興との和睦を仲介し、正妻愛姫の実父田村清顕亡き後、家中が伊達派と相馬派に分裂した三春を窺う相馬義胤に対しては岩城常隆との和睦を仲介したが、却って最上、相馬との対立は深まることになった。 この局面を打開するため、天正16年正月に大崎氏を攻めたが、逆に敗北を喫してしまった。

同年五月、政宗は米沢城から大森城(現福島県福島市)に入り、義胤を相馬領まで退けたが、六月、本格的に佐竹義重、蘆名義広親子四千の軍勢が安積郡に侵攻してきた。最上、大崎、相馬と接する国境の守備で政宗がこの時動員出来た兵力はわずか六百に過ぎなかった。

郡山城と窪田城で防戦した伊達成実と片倉景綱の獅子奮迅の働きにより、会津勢は伊達氏を屈服させることが出来なかった。結局、七月に和睦という水が入ることとなり、この時、仲介の労を取ったのが岩城常隆(親隆の子)と石川昭光である。両軍が陣払いしたのが七月ニ十一日であったので、記事の書状は、郡山の合戦に関する手紙であることは間違いない。内容にも矛盾がないことから、手紙が真筆であるか写しであるかは判らないが、その存在自体は歴史的に符号するものだ。

思えば、この時期の伊達政宗はまさしく人生最大の危機に直面していた。それを好機と捉えていたはずの佐竹、蘆名連合軍であったが、若輩であった義広は蘆名家の古参家臣を統率出来なかったこと、義重が中央の豊臣秀吉から戦闘を中止すべく圧力が掛かっていたこと等が勝利を逸した要因と考えられている。しかし、それにもまして、伊達氏家臣団の結束力と政宗の困難に打勝つべく幸運を味方につけていたことの方がはるかに大きな要因だったように思える。云ってみれば、政宗公は草の根にしがみ付いても生き抜き、勝つべくして勝つ、そんな星の下に生まれた武将であったと言えるのだろう。

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