郡上藩凌霜隊 日和見主義の国許から見捨てられた会津戦争もう一つの悲劇

「創業は江戸時代。約130年の歴史があるそうです。宿の前が会津に向かう街道なので宿の名にしたそうです。また、幕末には戊辰戦争で旧幕府軍として戦った美濃・郡上藩の凌霜(りょうそう)隊が塩原に駐留した際に、脇本陣になったといいます」  (2012.12.23 MSNニュース)

美濃群上藩江戸家老朝比奈藤兵衛は慶応四年(1868年)四月十日、嫡男茂吉を隊長とする47名で凌霜隊を結成し、旧幕府軍を援護する目的で会津に向かわせた。(1)

美濃群上青山家は家康公以来の譜代の臣であったが、去る二月十一日、国元にいた当主幸宜公は時勢に逆らうことが出来ず、新政府への恭順を表明。一方、江戸藩邸では朝比奈家老をはじめとする強固な佐幕派が主流を占めており、薩長政権を容認しない徳川家家臣の大量脱走に凌霜隊を同行させる要因となった。また、彼らは青山家への責任を回避するため、脱藩身分での出陣であった。

当藩士一同御書院ヘ会合 徳川氏ノ御為尽力致サン事ヲ申シ立テ モシ採用ナクバ変動ニモ及ブベキ模様ニテ諸形勢容易ナラズ

これは凌霜隊副隊長速水行常が4月10日付けの日記に書いたものである。40数名の家臣らが脱藩扱いとなってまでも戊辰戦争への参戦を決意したのは、江戸藩邸の総意というだけでなく、徳川家への恩を返すのは今こそとし、個々の隊士たちの士気も高かったであろうことが伝わってきます。

凌霜隊はその後、大鳥圭介率いる伝習隊に合流し、四月十六日小山で戦い、ニ十三日には宇都宮城攻略戦に参加している。そして、五月十九日から三ヶ月間、会津藩と協議の末、旧幕軍第四大隊に属し草風隊と共に那須塩原に駐留した。(2)

八月ニ十二日、若松城下を新政府軍が急襲する気配をみせた為、会津藩は塩原の駐留軍全体に一帯を焼き払った後、撤退するよう命じた。

和泉屋、丸屋、凌霜隊ニテ手伝ヒ家ヲ崩スコト三日ニテ、根太取リハヅシケルユエ大悦ビ也

お世話になった塩原の人々に情が移ったこともあり、凌霜隊は宿を焼き払うことはせず、後に再建出来るよう部材ごとに解体していったという。記事にあるよう、現在も那須塩原市で凌霜隊の名が伝わるのは、彼らへの感謝の想いが今日までも伝えられているからであろう。

その後、日光口から追撃してきた新政府軍に対して、凌霜隊はしんがりを引受け、横川、大内、大内峠、関山と激戦を戦い抜いた。特筆すべきは、大内峠の狭隘した地形を利用し、凌霜隊は寡勢ながら主力武器スペンサー銃で薩軍を4時間以上釘付けにしたということだ。

そして、すでに籠城戦に突入していた若松城の北郭門に辿り着き、遊撃隊小山伝四郎の指図に従い、入城を果たすことが出来たのは九月六日であった。城内では、白虎士中一、二番隊の生存者で再編成された白虎隊の指揮を取る日向内記の下、西出丸の防衛に当たっている。

凌霜隊最年少の17歳であった隊長朝比奈茂吉の資料はあまり残っていない。だが、隊士矢野原与七が残した凌霜隊の戦記「心苦雑記」からは、常に先頭に立って、隊士たちを叱咤激励し戦っていたことが記されている。単に凌霜隊を援軍として送り込んだ家老朝比奈藤兵衛が父であったからだけではなく、強い徳川恩顧の思想と勇敢さを持ち合わせた青年であったことが想像される。

若松城開城後、生き残った隊士達は美濃青山家から苛酷な処分を言い渡された。群上へ護送され、揚屋(牢獄)に半年間の幽閉。明治二年五月、領内寺僧の嘆願により自宅謹慎を経て、翌年二月晴れて自由の身となった。だが、青山家が彼らに手を差し伸べることは皆無であった。何より、賊として捕らわれたことで、周囲の目も冷たく、朝比奈家を継ぐことも許されなかった茂吉、そして、全ての隊士たちにとって、自らの国許での居場所は無かった。

茂吉は父藤兵衛の実家である彦根井伊家の重臣椋原家の養子となり、名も義彦とし新たな人生をスタートさせた。父と朝比奈家を継いだ弟辰静の家族も呼び寄せ養ったという。茂吉こと椋原義彦は滋賀県犬上郡青波村の村長を務めた後、明治二十七年に急逝した。享年四十三歳。親分肌の人柄で、酒に酔うと隊を切り捨てた藩を痛烈に批判していたそうだ。今際の際、混沌とする意識の中で彼は最後に、「凌霜隊、白虎隊・・・」と呟いたと伝わっている。

凌霜隊が会津の援軍として送り出された背景には、国許に対する江戸藩邸佐幕派の強行という一面の他に、時局の先行きが不透明だったため、新政府軍と旧幕軍の両方に加担するという小藩の生残り戦略も見え隠れする。だからこそ、彼らはお家の責任を回避するためと知りながら、脱藩という身分をあえて受入れ出陣したのだろう。凌霜隊にとって、会津戦争は徳川恩顧のための戦であると同時に、美濃青山家存続のための戦いでもあったのだ。それ故、戦後、形式的な微罰は受けても、まさか切り捨てられるとまでは想像もしていなかったのではないか。結果的に捨て駒となってしまった凌霜隊ではあったが、彼らの勇猛果敢な戦い振りは未来永劫語り告がれていくに違いない。(3)

(1)中間6名、客員2名(旗本、会津藩士)を含む。

(2)草風隊は旗本織田対馬守信愛を中心に、上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護、及び江戸市中の治安を目的とし結成された。しかし、慶喜公が水戸に移った際、江戸を脱走。その直後から凌霜隊と行動を共にしていた。織田対馬守は江戸に残留し上野戦争に参じた。その後、隊は天野加賀守花蔭と村上求馬が指揮を執っている。

(3)余談になるが、東京都の幹線道路の一つ国道246号、通称青山通り、及び港区青山の地名は江戸時代この辺り一帯に美濃青山家の下屋敷があったことに因んで付けられた名称である。

*文章の転載は厳禁とします。

この記事はMSNニュース 2012.12.23版を元に書かれたものである。

error: Content is protected !!