元治元年の長州征討 西郷吉之助の献策は現代に通じる指針と成りえるか

アルジェリアでのイスラム武装勢力による人質事件の契機となった隣国マリへのフランス軍による武力介入を巡り、欧米の誤算が引き金となったとの見方が出始めている。マリでのイスラム武装勢力の実力を見誤り、急激な直接介入を行わざるを得なかった欧州の誤算や、米軍がマリ政府軍を訓練したが、一部が反乱に寝返った誤算が指摘されている。(2013.1.19 毎日jp)

元治元年七月の禁門の変により、朝敵となった長州藩に対して、将軍徳川家茂は征討令を発した。総督に前尾張藩主徳川慶勝、副総督に越前藩主松平春嶽、そして、薩摩藩士西郷吉之助に参謀を命じ、諸藩から15万の兵を召集させた。

同月、下関の沿岸砲台を壊滅させた四ヶ国連合艦隊が大阪湾に近づく気配を見せたため、西郷はこの問題を一刻も早く解決すべく必要に迫られた。征長総督の任命に幕府が手間取る間、西郷は以前から長州に放ってあった密偵の報告により、禁門の変後に長州藩の保守派が勢いを盛り返したことと、支藩である清末、徳山、岩国の三藩が抗戦的な本藩に批判を強めていたことを探知し、「長人をして長人を処置させる」を上策とし、これを献言した。

記事にあるよう、アルジェリアの人質事件の契機となったフランスのマリ軍事介入に関して、過激派の重武装と組織的に訓練されていたことが予想外であったことを挙げている。現在もアフガニスタンに駐留するISAF(国際治安支援部隊)が当地で占領軍とみなされ、なお苦い経験を積んでいることを忘れていたわけではあるまい。EU諸国は地元の軍を主導にを、メインのシナリオとしていたという。だが、中東同様にアフリカでも同じ轍を踏んでしまったことは否めない。

さて、征長に出兵した諸藩の重臣らは、あくまで長州への武力討伐を主張していたが、総督慶勝は西郷を信頼し一任したことで、 毛利敬親、元徳父子の自筆謝罪文書、福原越後元僴ら三家老の切腹。そして、三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修の五卿を大宰府に移すことを条件に戦局を収拾した。

西郷は戦わずして、征長軍の面目も立てることに成功したわけだが、この時の情報収集力、時勢を見通した決断力、そして、何より死を覚悟し、身一つで懐に入り相手を説得した誠実さと実行力があったからなのは云うまでもない。更に、この采配は歴史的にも大きな役割を演じることになった。高杉晋作率いる奇兵隊ら反乱分子も手付かずのまま存続させたことで、結果として後の倒幕運動を推進させる力を削がなかったからだ。もちろん、当時からそのことを予測しての行動であったわけではないだろう。ただ、天が彼にそうさせたとしか言いようのない手際の良さであっただけに、天下にその名を響かせることになったのは知ってのとおりである。

フランスのマリ空爆は、予見出来たはずの過激派の力を見誤った、情報収集のお粗末さの結果であることは明らかである。取りも直さず、この後に起こるであろう中東の二の舞は現実味を帯びてきたわけだ。

アルジェリア・イナメナスでの人質拘束事件は実に嘆かわしい事件であった。アルジェリア政府が諸外国への通知を抜きにして掃討作戦を実行したのは、国家プロジェクトである天然ガスプラントの保護とテロリストとの対決姿勢を明確にする目的があったからだ。ゆえに、当初は作戦を強く非難していた米英も、アフリカでのテロ行為の拡散を望まぬ立場から、その後は政府を一貫として擁護している。

故国から遠く離れ、砂漠という厳しい環境の中で日々従事していた日本人に犠牲者が出たことは、同じ国民として心痛の極みである。あらためて、犠牲となった方々のご冥福を祈りたい。

しかし、日本政府も我々も、心しておかねばならない。同様の事件が今後北、西アフリカで起こることは間違いない。日本の企業もテロを恐れて、海外の開発事業から撤退することはないだろう。ならば、早急に多くの現地邦人の生命を守るマニュアルを、政府と企業には見直してほしい。西郷隆盛のような政治家が今の政府にいないのは残念だが、欧米各国との連携があれば対策は可能なはずだ。

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