松浦武四郎 今日最も注目されるべき偉人の企画展が開催

  北海道の名付け親として有名な松阪出身の探検家・松浦武四郎(1818~1888年)は激動の幕末に志士としても活躍した―。松阪市小野江町の松浦武四郎記念館は「武四郎と幕末の志士たち」展を開き、意外と知られていない武四郎の素顔を紹介している。三月二十日まで。(2013.1.24 伊勢新聞)

幼少時より国防を意識していた

松浦武四郎は文政元年(1818年)、伊勢国須川村(現三重県松阪市小野江町)の生まれ。先祖は多気城主北畠氏の家臣から土着した郷士であったという。林子平に傾倒し、幼少時より国防という意識に芽生えていた。17歳で故郷を飛び出し、10年間一度も帰郷することなく蝦夷を除く全国各地、及び名立たる山々を踏破した。26歳の時、長崎の名主津川蝶園文作から北方探査の重要性を説かれ、これを人生の目標に定め、蝦夷渡航を嘱望するようになった。

武四郎の生涯において、六度にわたる蝦夷探査とそれにより完成した精密な地図、及び数多くの著書を遺したことは最も光が当てられるものであろう。著書の中で、当時差別され略取され放題であったアイヌ民族の実情を厳しく告発し、待遇改善に努めた。蝦夷図に関しては、寛政十二年伊能忠敬による実地踏査を引き継いだ間宮林蔵が完成させていたが、武四郎はこれに山脈、河川の源流、道路、村落などを片仮名で詳細に記し、着色して完璧なものに仕上げている。

現代より幕末の方が名声があった

蝦夷がロシアの脅威に晒されていた幕末、彼の名声は現代とは比較にならない程、天下に広く知れ渡っていた。幕末初期の志士達は、欧米列強の侵略という憂国の想いが何よりもその行動規範であったため、武四郎が全国の志士達から一目置かれていたのはいうまでもない。(1)

この時代、ロシアの南下に対する北方の問題は、当時の知識人たちの念頭に常に置かれていた。それゆえ、渡航が困難であった蝦夷地に関して、嘉永二年(1849年)までに三航を果たしていた武四郎が当代一流の人物と評されていたのもごく自然であった。特に交流が盛んであったのが攘夷思想の強い水戸藩で、加藤木賞三をとおして、藤田東湖は蝦夷探査の経過をつぶさに聞いていた。それは烈公徳川斉昭の耳にも入り、後に武四郎は侯へ『蝦夷日誌』を献上し、侯からは和歌を贈られている。(2)

勤皇の志士として

さて、記事にあるよう武四郎は吉田寅太郎(松陰)とも知遇を得ている。国防問題に精通している人物と見なされていただけに、意見交換を求める志士たちとの交流は盛んだったであろう。安政三年(1856年)に四度目の蝦夷渡航を果たすまでの間、武四郎も勤皇の志士として活動している。この間、世情は浦賀にペリーが来航するなど騒然としていた。

嘉永六年(1853年)八月三十日、儒者鷲津毅堂から上洛するよう依頼されることになる。これは東湖と土浦藩郡奉行を辞した藤森天山の策で、新将軍徳川家定への宣下に対して、国体を辱めないよう攘夷の御沙汰も共に賜るよう内願するという趣旨のものであった。

企画展で公開される松陰からの書状とは、この上洛前の武四郎に自筆の国防論『急務策一則』と大阪の砲術家坂本鼎斎への紹介状と共に送られたものだ。

九月十六日、甲州街道を使い十月十一日に入洛。今出川三条家をはじめ、三条家、佐賀藩士枝吉次郎(副島種臣)、森田節斎、転法輪家、堤家、春日潜庵、そして、坊城家へと奔走した。その苦労が実り、二十ニ日に秘密文書の内願は聞き届けられ、勅論は降下された。(3)

錦旗事件

一方、江戸では武四郎が斉昭侯から密命を受け、錦の御旗を受け取りに上洛したという噂が立っていた。この『錦旗事件』はあくまで噂の範囲を超えなかったが、同じ頃、樺太の国境画定問題で、長崎にロシア船が入港していたため、蝦夷通であった武四郎に幕府の密偵が付いていたのは真実のようだ。

蝦夷探査と膨大な著書の存在があまりに大きかったため、これまで幕末に志士として活動した実績には、あまり光が当たることはなかったようです。松陰をはじめ、多くの憂国の士たちとの交流があったものの、彼は安政の大獄で捕縛されることもありませんでした。本人も著述していますが、それは幕府御用掛として蝦夷に渡航していたためというのは間違いないでしょう。

評価の変遷

時代とともに、武四郎の評価は変遷した。少数民族への圧制を告発した人物として祭り上げられることもあれば、アイヌに同情したのはあくまで北方の防衛のためであったとする説もある。更には、彼はアイヌではないからこそ、同じ日本人の非道を見過ごすことが出来なかったからだとする主張もある。彼の功績を民族主義や民族学として捉えることも、深く多面的に武四郎を理解するためには必要なことだと思う。しかし、私はもう少しシンプルに考えたい。異なる民族であっても、目の前で同じ人間が苦しんでいれば同情を覚え、手を貸そうとする、現代であればいたって普通の人としての姿勢であろう。だが、当時はそうではなかった。誰も何も感ずることもなく、アイヌの人々への差別が当たり前だと思われていた時代、彼はそれを行った。その武四郎の人としてのあり方に、熱いものがこみ上げてくる。私の考え方は一昔前の松浦武四郎観であるかもしれないが、人が人に共感を覚えるのはいつの時代も、人の内なるものに対してではないだろうか。

注釈

(1)明治二年七月、武四郎は歴史的に論拠を置いた数種の候補を挙げ、「道名の義につき意見書」を提出した。古来よりある蝦夷とは、元々地名ではなく、北方に住んでいた人々に対する蔑称であったからだ。その中から「北加伊道(きたかいどう)」が新政府によって採用された。「夷人自其国曰加伊、蓋其地名加伊」、「加伊と呼ぶこと、今に土人共、互にカイノーと呼ぶ、女童のことカイナー、男童をセカチー、訛ってアイノーとも近頃呼なせり」を拠所としている。その結果、「加伊」に「海」の字を当て、ここに北海道の名称が誕生した。それは奇しくも、ニ十数年前に自らが号した憂北生・北海道人と合致することとなったのだ。

(2)東湖は武四郎を、天下の奇男子、彼のような人物が世にいる以上自分は早々に死ぬわけにはいかない、近来の愉快とはまさに比事である、と書簡に書いている。なお、加藤木賞三とは三男一雄が武四郎の嗣子として養子に入るほど親交が深かった。

(3)水戸藩ではこの時の奏功を5年後に、かなり強引な手法で再び試みている。それが戊午の密勅事件であり、大老井伊直弼の怒りを買い、安政の大獄の引き金になったことは先日放送された『八重の桜』でも描かれていた。

武四郎は安政元年に『他計甚麼雑誌』という書を著しています。これは鬱陵島(江戸時代は竹島、現在の竹島は松島と呼ばれていた)に関しての雑誌です。当時、鬱陵島を実行支配していたのは鳥取藩でしたが、朝鮮王朝も領有権を主張してはいたものの、空島政策を執っていました。係争を避けるため、幕府は元禄年間に竹島(鬱陵島)への渡航を禁止。武四郎は無人島ゆえに欧米の外国船が出没した際、山陰諸藩にとって害となるだろうと警告し、早々の入植を提案しています。

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