黒田清隆 西南戦争衝背軍11日間滞陣の真相を検証

甲佐町生涯学習センターで4日、「西南戦争 甲佐・堅志田の戦い資料展」が始まった。甲佐の歴史を語る会が、佐土原歴史史料館(宮崎市)の協力を得て企画。28日まで。(2013.2.5 くまにちコム)

高島鞆之助大佐の進言

明治十年三月十九日、西南戦争最大の激戦田原坂の攻防はクライマックスを迎えようとしていた。同日未明、熊本城南約40kmの須口の浜に黒木為楨中佐の二個大隊と警視隊五百人が、海軍艦船鳳翔の援護の下、上陸に成功した。

開戦早々、薩摩出身の高島鞆之助大佐は鹿児島県士族の弱点を「進むを知って退くを知らず。勇猛果敢だが、臨機応変に欠ける」とし、よって八代(現熊本県八代市)辺りを占領し熊本と鹿児島を遮断すべし、と意見具申していた。当初、山県有朋参軍はこれを採り上げることをしなかったが、同月十四日政府は黒田清隆中将を征討参軍に衝背軍を編成した。高島大佐は別働第ニ旅団の司令長官、山田顕義少将に第三旅団、大警視川路利良少将が第四旅団(警視隊)をそれぞれ率いた。

『黒田清隆と山県有朋』

衝背軍の上陸

薩軍も開戦当初より、八代近郊に三百人程の守備兵を配置し上陸軍を迎え撃ったが、海上からの艦砲射撃に耐え切れず後退した。この熊本城南郊の地勢は東西に小さな川がいく筋も流れているため、自然とその土手に寄って防衛線を築くことになる。薩軍本部では十九日夜には衝背軍上陸の報に接し、急遽永山弥一郎の指揮の下、千三百人程の部隊を南下させている。二十日に両軍は氷川近辺で衝突し一進一退の攻防を演じたが、後続の衝背軍が増援されたため後退した。

甲佐・堅志田の戦い

資料展が行われる『甲佐・堅志田の戦い』とは、四月三日早朝、北上しながら戦線を押し上げる政府軍に対して、薩軍が夜霧に乗じ甲佐から堅志田第三旅団陣営を襲撃した戦闘のことである。急襲された政府軍は当初、防戦一方であったが形勢を建て直し、薩軍を三方から包囲することに成功し反撃に転じた。薩軍は緑川北岸に寄り政府軍を迎え撃とうとしたが、再び包囲され甲佐の自陣に火を放って壊走した。第三旅団は甲佐まで追撃したが、市街に火を放ち堅志田に引返した。(1)

この戦闘で薩軍の中心であった佐土原隊総勢四百人は半数以上が死傷した。佐土原藩は薩摩の支藩であったため、早い段階から隊を編成し薩軍に参加している。七月に佐土原(現宮崎県宮崎郡佐土原町)が陥落すると、大半の隊士が降伏したが、総裁島津啓次郎は城山まで戦い抜き戦死している。

黒田清隆の戦略

四月一日、宇土を攻略した黒田清隆は衝背軍四千五百を右翼、中央、左翼に展開し、緑川南岸沿い約27kmに及ぶ戦線をひいた。黒田は「我が軍は本軍から孤立しているので尺進尺守を旨とし、軽々しく進撃してはならない」とし、これを維持させた。

四日、海軍総帥川村純義が宇土で黒田と余人を交えず会談している。日時は少し先だが、同月十二日に衝背軍が緑川を一斉に渡河し、熊本城を目指すまでの十日間以上も進軍を停止した理由を、司馬遼太郎は憶測であるとしながら、黒田が「時間稼ぎをしたのは南北から挟撃される前に、西郷隆盛を逃そうとしたためであろう」と、著書『翔ぶが如く』の中で述べている。また、同書は川村との会談を薩人二人だけで行ったのも、西郷に関しての話であったのではないかとしている。

司馬遼太郎の推測

司馬氏がこのように推測した最大の理由は、黒田が西郷を生涯の師と仰いでいたことも一つであろう。正面軍参軍山県有朋に攻勢を維持する兵力が不足してると訴え、増援を求めたが却下され、京都の大久保利通に催促しこれを了承された。これも時間稼ぎの手段として、山県が最初から増援を拒否するだろうと、見推しての要請だったと司馬氏は言うのだが。一方、政府軍側の記録では、一刻も早い進軍のために増援することを山県は了承している。この増援部隊二千六百が宇土に上陸したのは四月七日だった。

籠城軍の危機

八日、熊本城から薩軍の包囲を強行突破した奥保鞏少佐率いる一大隊が木原山(現雁回山)の衝背軍本隊と合流し、城内の糧食がすでに尽きかけていることが判明した。増援部隊も到着し、即座に籠城軍救出に向かうべきであるにも拘らず、更に四日間の足踏みをしている。川村との会談で、「(増援が)三千あればすぐにでも熊本城の包囲を解いてみせるのだが」という黒田の言葉からは、小説では、兵力の補充は完了したが援軍が来るのが早すぎたとされている。

司馬氏が、もっとも注視したのが熊本城開通後早々に黒田が参軍を辞任している点であるようだ。自分の仕事は篭城軍の救出までで、その後も軍を率いて戦えば、恩師西郷の首を自らが取らねばならなくなると考えたからであろうと。

『翔ぶが如く』には、「ピクニックのようなふんいき」「遊山のようなかんじ」、黒田は作戦方針をきかれると「そのうちに会議で決めます」等、如何にも悠長に構える描写が繰り返されていて、そこはやはりフィクションなのかという気にさせられる。一方、政府軍の記録からは時間稼ぎをしていたとする記述はもちろん、西郷を逃すため等と書かれているものはない。

両面作戦を避ける

黒田が、緑川南岸から熊本城までわずか12kmの距離に対して慎重だった理由には、上記した以外にもある。それが、衝背軍の後方、人吉に薩軍が集結中であることが判明したからだ。この部隊は田原坂・吉次での攻防で兵員が不足したため、別府晋介、辺見十郎太と淵辺郡平が鹿児島に帰還し徴募してきた千五百人程の増援部隊である。この報が衝背軍にもたらされたのは、三月二十六日である。

四月四日、辺見率いる部隊が八代の一個中隊を敗走させた。戦線維持で手一杯であったことから、八代防衛にまで兵員を避けなかったのはいうまでもない。だが、これで衝背軍が逆に挟撃される危険が出てきたため、甲佐・堅志田方面の戦線を縮小し、八代へ逐次部隊を増派しなければならなくなった。黒田が山県に対して増援を求めたのは、このためである。敵と南北で対峙することになったゆえ、決して悠長な気分でいたであろうはずはない。

結局、薩軍の北進部隊を壊滅させ、後方の憂いを除いたのは十七日になってからである。八日に増援部隊が到着しても、黒田が即座に作戦行動をとれなかったのも当然である。もし、この時彼が幕僚たちに小説のように余裕を見せていたのが真実であるなら、心情とは裏腹に、評判どおりの肝が据わった人物であったことも頷ける。

山形有朋との因縁

そして、もう一点黒田が熊本城開通のために時間稼ぎをしていたとは思えない理由がある。それが山県有朋との積年に渡る因縁の関係だ。熊本城へ向けて、進軍開始を予定していた前日の十一日、鳥尾小弥太中将が衝背軍の一旅団を山県の正面軍に振分けるよう内勅を奉じてきた。黒田は憤慨し、この命令を無視している。自分は征討総督有栖川宮熾仁親王の命により動いているのに、直に勅命が下るのは解せない。これは明らかに山県が自分の功をさらおうとしてる横槍であると。

若き日の黒田が薩長同盟成立を長州侯に報告した後、山県に伴われて大阪の藩邸に帰還した。この時、山県へ礼として「両心相結不相離」ではじまる詩を贈っている。互いを西郷、木戸の次世代の担い手として認めつつ良好な関係が築かれるはずであった。だが、北越戦争の際、薩長間での指揮系統が統一されなかったことが原因で、以後二人は埋まることのない溝をつくってしまっていた。

四月十三日、黒田はイラサ棒(青竹)で地面を叩きながら、グズグズして居れるかと山県への対抗心をむき出しにしたという。十五日、衝背軍は正面軍よりも先に熊本城との連絡に成功し、入城を果たした。五十日余り続いた籠城戦はここに終結し、薩軍は城の攻囲を解き木山(熊本城の東)へ撤退・布陣した後、二十日、城東会戦で政府軍の猛攻を受けることになる。

滞陣11日間の真相を推測

司馬氏の著述の半分はおそらく真実であろうが、もう半分は推測の域を出なかったというのが私の個人的な考えである。大恩ある西郷隆盛を攻めなくてはならないという想いと、窮地に追い込まれた籠城軍の一刻も早い救出に相克しながら、直面していた現実的な問題は南北からの敵に相対したことで兵力の不足に陥った。その結果、緑川南岸の効果的な戦線を維持しながら、兵力の補充と薩軍の増援部隊を沈黙させるために時間を費やさねばならなかった。これが十一日間におよぶ滞陣の真の理由なのではないだろうか。

(1)緑川は熊本県熊本市南区と宇土市の境から島原湾に到る、熊本南郊では最も川幅の広い河川。

参考文献

「翔ぶが如く」 司馬遼太郎、「維新・西南戦争」 旧参謀本部編、「西南戦争」 小川原正道、「人物叢書 黒田清隆」 井黒弥太郎

*文章の転載は厳禁とします。

error: Content is protected !!