瀧廉太郎 自作詩『古城』への想いは『荒城の月』へと受け継がれたのか

昭和55年に製作された夏目漱石原作のアニメ『坊っちゃん』の劇中で、退職したウラナリを見送る坊っちゃんが、松山城址の石垣の上で『荒城の月』を謡うシーンがあります。

声を演じる西城秀樹さんが哀感漂う情景の中で、背筋を伸ばし、凛として歌い上げる印象的な場面だったことを憶えています。

その日本人なら誰もが知る『荒城の月』、多くの研究者や信奉者たちが曲のメロディをイメージした城址について、著書や意見を数多く書いているが、それらはほぼ豊後竹田の岡城か越中富山城、作者瀧廉太郎が幼少時を過ごした心象風景の中からイメージしたであろうとする説に落ち着いているようだ。

土井晩翠が書いた詩『荒城の月』は、明治三十四年旧制中学唱歌の公募のために、予め用意されていたテキストの中の一篇であった。

懸賞に応募するため廉太郎が、晩翠の詩を選択したの何故であろう。

現在、大分県竹田市立歴史資料館が所蔵している廉太郎直筆の『古城』なる三十四行詩が存在している。この詩がいつ書かれたのか、どこの城址を基にしたものなのかは、内容も抽象的で判然としないという。(1)

それでも、『古城』の次の一節が、私は気になって仕方ない。
二百年の名残やなに
水草ゐる邉に橋杭朽ちて
野菊咲くかげ石ずゑ残る

この二百年の名残やなにという部分、何気なく詠んでしまえば、藩政の権威の象徴であった城郭を徳川封建時代そのものに置き換えた一節ともとれる。 素人考えではあるが、それなら、一般的に徳川三百年の三百とするものではないか。廉太郎は何故、これを二百年としたのだろうか。

実直に数字だけで考えてみると、維新から遡る二百年前とは前後の差を読んでも17世紀後半、すなわち、四代将軍家綱の治世だ。この時期に新たな城郭は建設されていないが、国替えによる新領主の政が始まった例は幾つか見ることが出来る。

廉太郎と関わりがありそうで、この頃に国替えが行われた領地は一箇所しかない。それは明暦二年(1656年)、日根野吉明の死後、無嗣により改易除封された豊後府内藩だけだ。

後に大給松平家が移封され、約ニ百年間維新まで府内城の主として続くことになる。  明治二十三年五月から、父の赴任先である大分に転居した廉太郎は、旧藩校遊焉館跡に建てられた大分師範学校に入学している。日々の生活の上で、翌年十二月に同県竹田へ移るまでの一年と半年という時間の中に、府内城址を焼付け詩想したのであろうと私は想像する。

この自作詩と晩翠の詩が謂わんとしている主題は明らかに同じである。もし、公募という機会もなく、晩翠の詩との出逢いもなければ、『古城』が先に歌曲として世に生まれていた可能性もなくはない。

つまり、『古城』が書かれた時期は明治三十三年という以外特定出来ないが、少なくとも、同年の『荒城の月』作曲より以前だったことは間違いないであろう。

野晒の如く朽ちてゆく廃城への想いを込めた自作詩を、廉太郎はいつの日か、歌曲として完成させようと考えていたはずである。

一方で、想像を更に広げると、『古城』の曲が廉太郎の頭の中で、すでに完成していたとしたらどうであろう。もしそうであったなら、この詩にのせる予定だったメロディを、公募のため、テキストの中に自らの詩と主題を同じくする晩翠の詩、『荒城の月』にのせ換えたとしたら。

もちろん、それを事実として証明出来るものは何もない。あくまで、私の個人的な推測に過ぎないが、あのメロディが府内城址をイメージしたものであったのではないかと。

晩翠の詩との出会いは廉太郎にとって、運命的ともいえるものであったが、自作詩に曲を付け完成させるという構想は引出奥に仕舞い込まれ、陽の目を見ることはなかった。

しかし、『荒城の月』は世に出で名曲となり、 廉太郎の名と共に永遠に歌い継がれることになったわけだ。

(1)『古城』 瀧 廉太郎 作

外堀は田にすきかへされ
内堀は年毎にあせて
二百年の名残やなに
水草ゐる邉に橋杭朽ちて
野菊咲くかげ石ずゑ残る
一の木戸か
二の木戸か
あなあはれ

君候の住みなれし大殿いづら
武士の侍らひし廣間はいづら
春霞かすみかこめし
秋霧のたちかかくせる
たゞ
麥秀で
菽實る
あなあはれ

狐なくあなた出丸の跡
月寒きこなた天主の趾

上葉に朝日させば君が千歳の色さかえ
下葉に夕風吹けば君を八千代の歌ほぎし
千本の松はや
昨日やうつゝ今日や夢
枝折られ
幹裂かれ
誰が家の薪となれる
誰が宿の烟となれる
千本の松のこるははや五本六本
一夜星暗く雨細き夜半
老松の
上枝の魂と
下枝の魂と
二人よりあひて
空しくならむ君恩を
泣きてさゝやく聲したり

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