田辺軍次 西軍協力者殺害は主君の仇討ちか戊辰の狂気か

戊辰戦争最大の激戦「白河口の戦い」の舞台で、西郷頼母率いる会津藩が本陣を敷いたといわれる白河市の稲荷山公園で18日、同公園周辺整備事業の竣工(しゅんこう)記念式典が行われ、関係者が新たな観光施設の整備完了を祝った。(2013.4.19 福島民友)

明治三年八月十一日奥州白坂村(現福島県白河市)にて、斗南藩士田辺軍次は同村人馬継立締役大平八郎を殺害。その際、手傷を負った田辺自らも屠腹し死亡した。享年二十一歳。

白河口の戦い

軍次の亡骸は同地観音寺に埋葬されたが、明治二十九年八月に会津会によって白河城址(小峰城)の南方丘陵地稲荷山の麓(現白河市松並)に改葬された。同地は慶応四年五月一日(1868.6.20)、会津藩家老西郷頼母を総督とする東軍2000が守備する小峰城を西軍700が攻撃した第二次白河口の戦いの中で、最も激しい戦闘の行われた古戦場だ。

この日だけで西軍の死傷者が20名程だったのに対して、東軍は700名以上の戦死者を出している。史上、一日で死傷者の差がこれほど出た戦闘は古今稀であるという。

東北自動車道白河ICを東に15分程車で走ると、市街から田園地帯に景色が一変する。ここを南北に貫なる旧陸羽街道(現国道294号)は、城下町を抜け小峰城へと続いた奥羽の幹線道路の一つであった。

激戦地稲荷山

その城下南口にあたる九番町で、街道は行く手を阻まれるようにぐるりと山を迂回している。現在、松並と地図表記されている場所がかつて白河口の戦いで最大の激戦地となった稲荷山である。この山の麓、道路沿いの一角が整備され『会津藩士戦死墓』という大きな碑が建てられている。

白河口副総督横山主税常守

五月一日の戦闘で死亡した将兵の中に、白河口副総督横山主税常守がいた。常守の父主税常徳は藩主松平容保と共に京へ付き従った江戸家老であるが、元治元年八月会津にて病没している。主税の名と共に横山家を継いだ常守は留学生として欧州へ渡航し将来を嘱望されていたが、国元の危機に前年の十一月に帰国したばかりであった。

この日、西軍は部隊を三つに分け、中央の隊に大砲を集中し敵を引き付け、左右から迂回した部隊を奇襲させ三方から東軍を包囲する作戦に出た。3倍にもおよぶ戦力差があったが会津藩を主力とする同盟軍は相次ぐ部隊長の戦死に壊乱状態に陥った。横山主税は、朱雀寄合一番隊一柳四郎左衛門、新選組山口次郎らが稲荷山で防戦一方だったため、自ら采を振ろうと登頂したところを狙撃された。主税の遺骸を回収するのも困難なほど、西軍の十字砲火は苛烈を極めたという。

『会津藩士戦死墓の後ろに改葬された軍次の墓、大きな墓碑の前の墓石は観音寺から移されたもの』

大平八郎を殺害

田辺軍次は主税の家臣であった。若松城落城後、東京での幽錮の後、斗南藩に移住している。一方、西軍に間道を手引きした大平八郎は白坂村の重役に取り立てられ、自身の行為は鎮台日誌に掲載され日頃から周囲に吹聴していたようだ。不毛な斗南での困窮した生活の中で、軍次が白河口の敗因、如いては主の死の責任を八郎に求めたのも自然であったかもしれない。

削られた軍次の墓碑

松並の会津藩士戦死墓の後ろにある軍次の墓碑裏側には高木盛之輔が撰した大平八郎殺害に関する事件の概要が刻まれている。風雪に曝され所々読み難い箇所があるが、その一文「而シテ白河ノ一敗ハ実ニ大平八郎ノ叛応ニ因ル 八郎ハ幕領白坂村ノ民ナリ 西軍ヲ導キ間道ヨリ出デ我軍ノ不備ニ乗ゼシム 其恩ニ背キ義ヲ忘ル実ニ畜獣ニ等シ」の「叛応(裏切り)」と「畜獣」の二語が人為的に削られているのは確認することが出来た。(1)

削られた時期がいつであるのかは判っていない。ただ、西郷頼母研究の第一人者である堀田節夫氏は、『天皇の軍隊に味方した人を「叛応」「畜獣」とは何事か』という、多分絶対的天皇制を維持せんとする「軍国主義」がこの二語を削り消させたのではないかと推測している。

会津戦争の真実

あくまで個人的な主観ではあるが、別の見方も出来ないだろうか。現在、放映されている大河ドラマの主人公新島八重は会津藩家中の出である。当然ながら、その物語は松平家の視点で描かれている。忠義と礼節を重んじた会津藩の重厚なストーリーが私達を毎回楽しませてくれる。しかし、それはあくまで武家の目線で語られるドラマであって、会津戦争の全体像を理解する上では不十分であろう。今後、ドラマの展開次第ではどのように語られるのかは判らないが、少なくとも史実として幕末から明治にかけての会津藩領の特に民心に関して、これが松平家と一つでなかったことは決してテレビでは描かれることはないだろう。

民心の反発

具体的にいえば、会津戦争終結後、新政府は会津領の地方行政を旧来の村方役人を使い支配しようとした。その直後、旧会津領各地で世直し一揆(会津やーやー一揆)が発生した。一揆側の要求は新政府が押し付けた郷方役人の排除を求めたものであった。会津藩制の一端を担っていた旧来の村役人は地主として農民を隷属的に扱ってきた。更に容保公が京都守護職として都に赴くための経費は度重なる増税で賄われ、戦火による農地への被害や家屋の焼失など、領民の不満が藩の支配が消滅したと同時に一気に噴出したためであった。

若松城攻略を指揮した東山道先鋒総督参謀であった板垣退助は、「会津は天下屈指の雄藩にして、政善にして民富む、もし上下心一にして、戮力もって国に尽くさば、我が三千未満の官軍如何ぞ容易にこれを降さんや」と語っている。何より、新政府が松平家に提示した新領地には旧領内の猪苗代三万石が候補にあったが、民心を掌握出来ないことを予測しあえて極北の斗南藩を選択したとされている。(2)

戦争の被害者

佐久間律堂著復刻版「戊辰白河口戦争記」には、戦争に巻き込まれ命を落とした村人たちの記述をいくつか見ることが出来る。会津藩は西軍が北上する以前の閏四月二十日、黒羽と白河の国境に「従是北会津領」の木柱を建てて白河占領を宣言している。その五日後、進軍してきた西軍は藩境からほど近い白坂宿の庄屋市之助を呼び出し村外れで処刑した。著書には市之助が斬殺された理由は明確にしていないが、会津藩とは無縁の市之助が殺されねばならない道理はどこにも見当たらない。明らかに敵地に入った西軍兵士の緊張感による誤解から生じた不幸な事件としかいいようがない。(3)

また、五月一日に大平八郎が間道を案内をした右翼の反対側、原方街道(現国道4号線)から立石山へ、主力である左翼隊を案内した上黒川村(現福島県西郷村)の問屋内山忠之右衛門という人物がいた。同月十八日、会津藩兵に捕らわれた忠之右衛門は若松城下に投獄され、八月二十二日に斬首されている。折りしもその日は、母成峠を突破した西軍が早朝に城下の玄関先である十六橋を急襲した報が容保公をはじめ藩首脳部にもたらされた日時と重なる。あくまで想像になるが、出兵の混乱に紛れて忠之右衛門は斬首されたのであろう。忠之右衛門が西軍の道案内を引き受けたのは、官軍先鋒の布告ビラに明示されていた「年貢半方」に期待してのことだった。これらはあくまで一例で、他にも多くの村人が謂れ無い理由で亡くなっている。また、家屋や田畑に被害を受けた証言も数多く残されている。(4)

怒りを押し隠して

軍次の墓碑から八郎を侮蔑する言葉を削ったのは、堀田氏の推測に間違いはないだろう。しかし、わざわざ二語だけ消し去り墓碑をそのまま残した行為にどこか遠慮がちで中途半端な印象を受ける。当時の軍人や官憲の手の者であれば、天皇制に少しでも批判的な存在ならそのものを撤去したのではないだろうか。失礼かもしれないが、私には事件のいわれを語り継がれた地元の人物の仕業ではないかと思えてしょうがない。

戦争の最大の被害者が弱者たる民間人であることは、今も昔も変わらない。士族たちの都合で家を焼かれ田畑が荒らされ、理不尽にも家族を殺された村人たちにとって、仇討ちに託けた逆恨みとも思える復讐で殺人を犯すような人物を礼讃し、決して自発的に協力したわけでない同郷の者を獣扱いする墓碑を疎ましく想っていなかったと、果たして言い切れるだろうか。現在のように、武家の視点による幕末会津松平家の悲劇が福島に広く浸透するようになったのは、白虎隊の物語などが流布した後の時代になってからのことなのだ。

『八郎の婿養子直次郎が立てた軍次の墓』

軍次を埋葬したのは

亡骸を手厚く供養し、義父の仇にもかかわらず墓を建立した八郎の婿養子直次郎は、軍次の忠義に感銘を受けたからだとされている。もっとも、戊辰戦争の悪夢を消し去り、二度と白坂村住人が士族から危害を受けないよう願う鎮魂の意味もあったかもしれない。

田辺軍次の事件は、とかく歴史の影に消されがちな民衆の悲劇も私に呼び覚ましてくれる。

注釈

(1) 「戊辰白河口戦争記」には全文が掲載されている。

(2) 猪苗代は慶長三年(1598年)減封された蒲生家の旧臣が多く土着した土地で、上杉家及び徳川藩制期を通じて民心を掌握することが困難な土地柄であった。

(3)会津藩の命により、市之助が 「従是北白川領」の木柱を倒し「従是北会津領」を立てたのが殺害された理由だとも言われている。

(4)若松城攻略前から、西軍は支配下に置いた会津藩領の村々に対して年貢半減を含む三項目のビラを配っている。

error: Content is protected !!