西郷菊次郎 最晩年に就任し行政手腕を発揮した永野金山

永野金山(さつま町永野−霧島市横川町)とその鉱業館長を務めた西郷菊次郎(1861〜1928年)を伝える記念誌「西郷菊次郎と永野金山」が、このほど完成した。菊次郎の父は、西郷隆盛。発行した永野西郷菊次郎顕彰会の原敬蔵会長は「菊次郎は知れば知るほど魅力のある人。これを機に、菊次郎の功績と永野金山の歴史を知ってほしい」と話している。(2013.5.13 毎日jp)

西郷菊次郎は万延二年(1861年)、奄美大島の生まれ。父は西郷隆盛、母は島妻愛加那、父母が同じ妹に大山巌の弟誠之助に嫁いだ菊子がいる。

明治十年の西南戦争では薩軍に従軍し、右足を膝下から切断する戦傷を負った。戦後、叔父である西郷従道の計らいで外務省に出仕し書記官として二度目のアメリカ渡航を果たしている。日清戦争後の台湾では、台北県支庁長、宜蘭庁長を歴任し、軍部から民政主導への統治を提言しこれを推進した。

宜蘭川の堤防工事や原住民生蕃を話合いにより帰順させ、民心の安定を常に配慮した手腕に人々は心服し、当地では今日も西郷といえば隆盛ではなく菊次郎として、その名は親しまれ語り継がれている。

菊次郎が永野金山島津鉱業館長に就任したのは、彼の晩年である51歳の時だ。その前年の明治四十四年に6年半勤めた京都市長を辞任し、鹿児島に帰り余生を悠々自適に送ろうとしていた時、公爵島津忠重からの依頼を受けたのである。

永野金山は山ヶ野金山とも呼ばれ、寛永十七年(1640年)に宮之城領主島津図書久通により開発され、金と銀を産出し続けた薩摩藩の財源の一つであった。

幕末に仏人技師からアマルガム法が導入されるまで、この金山でも椀がけ法による古典的な産出法を採用していた。菊次郎の前任者であった工学博士五代龍作が金山の電力化を行い採掘効率を大幅に向上させ近代化への道筋を付けている。また、この時に精錬所を山ヶ野から永野に移し、従業員も1000人以上に増え、県内有数の大企業へ成長していた。(1)

島津家からの依頼を受けた際、菊次郎はこれまでのキャリアとは無関係な仕事故に無事勤め上げられるか不安であったが、近代化を成し遂げ、金山の経営は順調であったので小さいことに拘らず、大局的に鉱山を見てくれる人物として要請したとのことから就任を快諾した。

すでに父隆盛が城山で露と散った年齢と同じになっていた菊次郎も、父の名に恥じない人物として世間では評価されていたということだろう。

鉱業館長に就任した8年間に、菊次郎は宜蘭庁長や京都市長時代の行政経験を生かし、従業員子弟のために私費を用いて武道館建設、夜間学校を開設した。また、テニスコートや娯楽場を作り住民の交流を盛んにするなどの手腕を発揮している。

館長を辞任し金山を去る際、村の人々が涙を流して菊次郎を見送った光景は、 かつて宜蘭庁長を辞任し日本に帰国する時と同じであったという。

偉大な父の名声に隠れがちである菊次郎だが、彼が生涯に遺した治績は讃えるべきものである。宜蘭川に整備された堤防は現在も西郷堤と呼ばれ、市民に親しまれている。当時、この功績を讃え建立された西郷庁憲徳政碑が第二次大戦後、内戦に敗れた蒋介石率いる中華民国政府が遷都した際行方不明となっていたが、1990年に発見され堤防上に再び設置され現在に至っている。

(1)アマルガム法とは金銀が水銀に溶ける性質を利用し、鉱石から不純物を濾過洗浄後、水銀を加熱蒸発させ除去する方法である。水銀に金や銀が溶け込んだ物質をアマルガムという。アマルガム法自体の歴史は古く、奈良の大仏もこの方法により金メッキされたそうだが、蒸発した水銀の処理法が確立していなかったため、大量の中毒者を出したとされている。

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