階段の聖母子 若き日のミケランジェロ作浮き彫り彫刻が日本初公開される

6月28日から福井県県立美術館にて、県内初となるルネッサンス期の芸術家ミケランジェロの作品展が開催される。中でも、15歳の頃に制作されたという『階段の聖母』は本国初公開となる。

ミケランジェロが同性愛者であっただろうとする説は広く浸透している。史実としては一切証明されてはいないが、研究者の中にはそれがミケランジェロが幼少時に里子に出され、母親と死別したことに起因していると説いている。生後まもなく、フィレンツェ北東部の小さな集落セッティニアーノの石切職人の妻に預けられ、6歳の時に闘病中だった実母を失っているのだ。

彼は生涯を通してこの死んだ母親についてほとんど口を閉ざしていた。更に、手紙や創作詩にも何も書いていないだけでなく、実家の経歴や記録さえも一切不明だという。その一方で、同時代のヴァザーリには『(石切職人の妻である)乳母の乳から彫刻を彫るのみや鉄槌まで飲み込んだ』、と話している。記録も記憶もないから実母に関しては何も話すことが出来なかったのか。それに対して、自分を芸術志向の人間に変えてしまうほど影響力があったとも考えている乳母のぬくもり。それは実の母でなかったかもしれないが、彼にとって子への愛というものを実感することが出来たのであろう。

言葉に出来ない幼少時の大いなる悲しみを、初公開となる『階段の聖母子』から感じられるだろうか。

『階段の聖母子』は若き日のミケランジェロ作品である。後に創られる傑作の数々と比べるとノミの入れ方に力強さが足りないという評価もあるが、眼識の足りない私などが観ればやはり心に迫ってくるものがある。

聖母マリアが階段に座りながらキリストに授乳している場面であるが、その背後には4人の子供たちが描かれている。衣を引張りあっている子供二人と顔をつつきじゃれあってる子供二人、衣でキリストを隠すように子供たちを見ているマリアの表情は正直冴えないのが一見して解る。

これを授乳している女性を石切職人の妻で乳を与えられているのはミケランジェロ本人、背後の子供たちは彼の4人の兄弟だと見ることも出来る。彼が生涯残した手紙には兄弟たちのことが実に多く書かれている。彼にとって迷惑この上なかった兄弟たちから乳母によって守られている幼少時の情景を描いたものと解釈できるわけだ。しかし、美術史家の田中英道氏は、それでは作品にこめられたミケランジェロの思想を考慮していないと著書の中でその説を否定している。氏は、『階段の聖母子』は、レオナルド・ダ・ヴィンチが作品にこめた思想への密かな対抗心から生まれたものだと解説する。

詳しい説明はここでは省くが、ミケランジェロが反発したダ・ヴィンチの思想がこめられた作品とは『三王礼拝(東方三博士の礼拝)』、あるいは『岩窟の聖母』。前者は1481年3月にフィレンツェ郊外のスコペート聖ドナート修道院から注文を受けたものの、ダ・ヴィンチが82年にミラノに向かったため未完成で終わった。後者はミラノ到着の翌年から着手し完成させている。制作年代が近いため、二つの作品の思想に近いものがあると考えられるている。

『階段の聖母子』をミケランジェロが制作したのは、フィレンツェを治めていたロレンツォ・デ・メディチが広大な自邸の庭園に才能ある彫刻家たちを集めた学校で修行していた時である。(1489~91年頃) 二人は直接会ってはいないが、ダ・ヴィンチは手記にメディチの庭園について書いていることと、『三王礼拝』がメディチ家主催のプラトン・アカデミー会員の親族宅に保管されていたことなど。『三王礼拝』が『階段の聖母子』に影響を与えた可能性があるだろうと氏は推測している(注1)

ダヴィンチ 三王礼拝.jpg

『三王礼拝』図 「聖母とキリストの周囲の三王、従者、羊飼いの同じ人物を二人づつ描く二重人物像の構図はプラトニズムを取り入れたもの」

『二つに切られた人間は、元々良く似たものの結合から分かれた存在だから、同じ年恰好の二人に描くことが出来る。プラトンは男性同士の愛こそ最高の愛であると説き、よく似た男性同士の存在に原初の人間の至福な状態を見る』(注2)

『階段の聖母子』にも似通った子供たちが描かれているが、ダ・ヴィンチと異なり至福を現すべく二人の子供は争っている。明らかにダ・ヴィンチの思想とは反するものであることは明確だ。

プラトニズムを取り入れた絵画の手法は、この後多くの芸術家に影響を与えることになる。私は以前、ミケランジェロがダ・ヴィンチに対抗心を見せながらも、敬愛もしていたであろうと書いた。おそらく、ダ・ヴィンチの思想を理解しながらも、あえて自分本位の道を探り続けたといえる。弱冠15歳ですでにその片鱗を見ることが出来る、それが『階段の聖母子』像なのだ。

なお、福井で開催されている『システィーナ礼拝堂500年祭記念 ミケランジェロ展―天才の軌跡』は、この秋東京国立西洋美術館でも開催される予定です。

(注1)哲学者フィチーノが1467年にプラトンの『饗宴』の注釈を出版すると、フィレンツェ・メディチ家を中心に上流知識人層の間でプラトニズムが大流行した。ダ・ヴィンチがミラノへ去ったのはネオ・プラトニズムを受け入れられなかったとする説もある。一方、上層社会のこの怠惰で不道徳な流行をドミニコ派教会のサヴォナローラは非難している。ミケランジェロはドミニコ派であったので、それが理由でダ・ヴィンチのプラトニズムを否定し、よりキリスト教的な芸術を志向したとも考えられる。

(注2)『ミケランジェロ』 田中英道著

* この記事は中日新聞 2013年6月28日版を元に書いたものである。

参考文献 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』 田中英道、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』

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