仏生寺弥助 天賦の才を持ちながら同郷の師からは認められなかった不遇の剣士

幕末の剣豪仏生寺弥助が京都で暗殺された後、埋葬された寺の過去帳に記述があったことが発見された。文久三年(1863年)六月二十五日の欄に一緒に殺害された高部弥三雄、三刀谷一馬と共に記されていたことと、戒名が一致したことで弥助の埋葬先が確実視されそうだ。

仏生寺弥助は幕末江戸三道場の一つ、神道無念流練兵館が生んだ千人に一人の才を持った剣士であった。生まれは越中国氷見郡仏生寺村(現富山県氷見市)、道場の風呂炊きとして呼び寄せられた百姓の倅だった。故に苗字がなかったため、後に出生地の名をとり仏生寺を名乗った。

稽古の様子を外からのぞいていたのを、門弟たちがからかい半分で竹刀を握らせてみると、思いの外筋がよく、向上心もあり瞬く間に稽古が進み十七歳で免許皆伝となった。大上段の構えからの面撃ちと前蹴りを得意とし、これを宣言しながらも相手は防げなかったという。

しかし、放蕩癖があり無学だったため、塾頭にはなれず、道場では軽んじられ、次第に身を持ち崩してしまったようだ。

何のめぐり合わせか、越中の小さな村から幕末史に名を残す二人の剣士が輩出された。一人は『力の斎藤』と称された神道無念流練兵館の祖斎藤弥九郎。もう一人が同館の天才剣士仏生寺弥助である。二人は師弟の間柄であったが、師匠である弥九郎は弥助を決して認めることはなく、最終的に相容れない関係で終わってしまったようだ。

名に同じ『弥』の一字を持った弥助を、弥九郎も当初は同郷の子弟として親身な眼差しを持っていたはずだ。しかも、剣に対する才能まで並々ならぬものを持っていることが判り、それは一層であったろう。だが、弥九郎が練兵館の門弟たちに求めたものは、単に剣技だけではなかった。

斎藤弥九郎は文化九年(1812年)に剣で身を立てる志を捨てきれず、銀一分を握り締め高岡(現富山県高岡市)の奉公先を飛び出した。この時、弥九郎十五歳であった。江戸で旗本能勢祐之丞の家人となった後、仕事に対する真摯な姿勢と夜遅くまで勉学に励む努力に、能勢は弥九郎を岡田十松の神道無念流道場への入門を許した。彼はここで後に主君となる江川太郎左衛門英龍と出会うことになる。

太郎左衛門が十松の道場で稽古していた期間、その代稽古をしたのが兄弟子の弥九郎であったのだ。やがて二人は親しくなり、開明的な太郎左衛門から弥九郎は新しい時代への趨勢に開眼してゆく。彼が後に剣よりも砲術に重き置いたのも、太郎左衛門から紹介された高島秋帆から学ぶ機会を与えられたからである。まるで乾いた土が水分を吸収するかのように知識を得ることに貪欲であった弥九郎は、やがて太郎左衛門が伊豆代官を継いだ時に召抱えられた。

文政三年(1820年)に岡田十松が没した後、弥九郎は道場の後見役として籍を置いていたが、6年後29歳の時に独立し、飯田町(現東京都千代田区)に道場を開いた。そして、これを「練兵館」と名づけた。費用は全て太郎左衛門が面倒をみたという。この最初の道場は火事で焼失したため、新たな道場を九段三番町(現東京都千代田区靖国神社内)に移した。桂小五郎や高杉晋作が学んだ九段の練兵館とはここのことである。

さて、斎藤弥九郎のことを簡潔ながら書いてきたが、仏生寺弥助のことを知る上ではどうしても必要不可欠と思えたからである。弥九郎は実に勤勉で、剣術も世に役立て、人を活かすものとして用いようとしたことは明らかである。それゆえ、自らの道場塾頭には剣技だけではなく、人格や教養を重んじた人物を指名したのは云うまでもない。云ってみれば、同郷で互いに剣の技量に長けていながら、弥九郎と弥助は当に正反対の人物であったことが判る。

弥助は剣の技術にだけ精進し、勉学に関しては見向きもしなかったのであろう。その結果、練兵館の「閻魔鬼神」と異名を取るほどの強さではあったものの、塾頭としての資質を具えることが出来ず、弥九郎にとって眼鏡に適う人物足りえなかったわけだ。弥助自身も師のそうした考えを読み取り、いつしか居ずらくなってしまったのだろう。やがて、道場を出奔した後、地方で用心棒に雇われたり、勤皇の志士を名乗る輩達との交流を深めていったようである。もっとも、食い詰めたりすると、ひょっこり道場に現われ、他流試合を望んできた武芸者の相手を務めたりもしていたようである。

慶応三年(1867年)、馬関戦争前夜、長州藩より依頼を受けた弥九郎は選抜した門弟らを勇士組として長州へ派遣した。だが、弥九郎の意に介さず弥助も勇士組に加わってしまったようだ。

兼而申上候吉村豊八郎事仏生寺弥助、過日倅ヨリ申上候ヨシ 御逢モ被下度趣ニ候ヘ共 如何ニモ人物麁忙ニ而人撰之内エ入兼当惑仕候。尤剣術ハ抜群ニ候ヘ共 何分行常六ヶ敷吹出不申内ハ手放兼申候。(中略)」

文久三年二月二十三日付で弥九郎が桂小五郎へ書いた手紙に、嫡男新太郎が弥助を長州へ連れて行ってしまったことを心配している様子が窺える。が、一方で粗暴ではあるが弥助のことを見限るつもりもないと書いているあたりに、やはり同郷の子弟として見過ごせない思いもあったようだ。

弥助は長州から一旦京へ引上げた六月に命を落としている。記事にあるよう高部弥三雄と三刀谷一馬と共に京松原通りの呉服商大丸に攘夷のための資金三百両を押借りしたことが原因だ。大丸は町奉行所だけでなく京都所司代と長州藩にも訴えたため、事が露見し三人は長州藩士らによって四条川原で斬り捨てられたとされている。(1)

なお、出典は不明だが弥九郎が弥助を本名吉村豊次郎で三河西大平藩浪人であると書いてある記述を見ることが出来る。あくまで想像であるが、本名ではなく勇士組に参加する際に使われた弥助の変名に対して、弥九郎は弥助の死後に事件の火の粉が練兵館に飛火するのを防ぐため、このような体裁を取ったのではと考えられる。

(1) この資金は遊行費としてではなく、武具の調達に使われたもので、弥助らが戦死した場合は返却出来ない件を大丸側が誤
解したため事件が大きくなったとされている。

この記事は京都新聞2013年7月20日版を元に書かれたものである。

参考文献

『剣客斎藤弥九郎伝』 『日本剣豪列伝』 『剣豪名勝負百話』 『江川坦庵

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