新選組一番隊組長 沖田総司 その終焉の地

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明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館に行ってきました。ここは幕末から明治の時代を、明治天皇を中心に描写した歴史絵画が展示されている美術館である。二条城での大政奉還や勝海舟と西郷吉之助の江戸無血開城談判の絵などは、おそらく教科書で一度は目にしたことのあるものだろう。絵の大きさは1メートル半四方はあったろうか、迫力があり、それらが時代を追って壁面に飾られ、時間の流れも理解しやすく展示されている。

ここへ来た目的はもちろん、それらの絵画を鑑賞することでもあったが、一番は館内奥に展示されている御料馬「金華山号」の剥製を見たいと思っていたからだ。私は昨年、「後藤貞行と金華山号」という記事を投稿したが、その際いずれはこの剥製も見学したいと思っていて、それがようやく実現した次第なのである。

剥製になった金華山号と後藤貞行が生み出した躍動感溢れる木像を単純に比較することは出来ないが、両方を見学できたことで、その生前の姿を思い浮かべることが一層容易になった。

絵画館を出た後、私は自然と新宿御苑方面に足が向いてしまった。首都高のガードをくぐると、すぐそこは新選組の沖田総司が病没した植木屋平五郎の敷地があった場所だからだ。

この場所には十年程前に一度来たことがあったのだが、以前web上で「沖田総司逝去の地」歴史標柱建立という新宿区に提出されたらしき陳情書を知ったことで再び来たいと思っていた。もちろん、総司終焉の地の案内板が出来ているのかが気になってのことであった。

総司が病没した場所に関しては、研究者の間で論争があったことは知ってのとおりだ。ここ千駄ヶ谷と浅草今戸八幡の松本良順宅のニヶ所である。現在、今戸八幡神社の境内には「総司終焉之地碑」が建立されている。これは、永倉新八著『同志連名記』の「江戸浅草今戸八幡 松本良順先生宿ニテ病死」を根拠に90年代に建立された。(1)

一方、子母澤寛著『新選組遺聞』(昭和4年)に、近藤勇の一人娘タマと結婚し、近藤家を継いだ勇五郎の談話として、総司が慶応四年二月末に今戸から千駄ヶ谷に駕籠で移されたことが書かれている。同じく『新選組物語』(昭和6年)の隊士絶命記に「千駄ヶ谷池尻橋の際にあった植木屋平五郎というものの納屋に(中略)」の記述がある。千駄ヶ谷説は、これらを根拠にしている。

研究者の間で、子母澤の著作には真実性に欠ける部分の指摘が多く、碑が建立された今戸説の方が有力であった。ところが、平成六年に明治二十一年一月付の「近藤勇五郎に質しこれを記す」という同二十九年に亡くなった吉野泰三の書簡が子孫の方によって公表されたことにより、論争は一応決着することになった。(2)

吉野泰三は天保十二年生まれ、多摩野崎村(現東京都三鷹市)の名主で医師でもある。明治になり自由党の神奈川県会議員として多摩の自由民権運動を指導し、明治二十六年に神奈川県であった多摩地方を東京府に移管する中心的な役割を演じた。自らも天然理心流を修め、知人である勇五郎が道場を再建する際も力添えをしている。

公表された書簡の中の一文に、「沖田総司近藤勇門人 白川阿部侯臣 明治辰年三十日 東京千駄ヶ谷於病死」が記されていた。これにより、勇五郎が子母澤から取材を受ける以前に、総司終焉の地を明らかにしていたことが判明したわけだ。

近年の著書では千駄ヶ谷説を採っている維新史研究家の菊池明氏も、かつては自著『沖田総司の謎』で子母澤の矛盾を論破し今戸説を強く推した一人であった。しかし、吉野泰三書簡公表後はそれを上回る史料が出ない限り、死亡地は千駄ヶ谷に妥当性があると、『歴史読本』平成9年12月号の釣洋一氏との対談の中で語っている。

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『池尻橋の遺構が残る総司終焉の地。以前は階段を下へ降りることが出来た』

「新選組金銀出入帳**」には、慶応四年二月廿六日に総司が療養するために、植甚こと柴田平五郎宅の離れを改築した大工に一金弐十両を渡したことが記されている。その離れがどこにあったのかは今となっては知る由もない。

萬延元年(1860年)の江戸古地図を見ると、信濃高遠藩内藤家下屋敷(現新宿御苑)の前を通る小街道は現在の外苑西通りとは少しルートが異なり、下屋敷に沿ったものであった。私がいる池尻橋周辺一帯は当時広さのある緑地で、敷地内には植木屋の文字を確認出来る。また、その東側には小さな川が流れていたことも記されている。

訪れた場所に川の流れはもちろんないが、その面影は確かに残されている。しかし、残念ながら池尻橋の遺構には鉄柵が掛けられていて、かつてはそこから平五郎宅のあった場所に降りていけたのが、今は出来なくなっていた。もしかしたら総司終焉の地碑建設の準備のためかと自問してみたが、はっきりしたことは判らなかった。ただ、現時点で研究者の間で総司が病没した場所は、ほぼ千駄ヶ谷であることに確定してるにもかかわらず、新選組ナンバー3最後の地に未だ案内さえないのは残念である。

昭和三十九年に司馬遼太郎著「新選組血風録」が発表されてから、同四十九年に草刈正雄さんが総司を演じた映画「沖田総司」が公開された前後が、いわゆる総司ブームの絶頂期だったのではないだろうか。その後も新選組の人気は続いているが、新史料の発見による隊士達の研究の成果や、個性の多様化が進んだ当世、総司以上に永倉新八や斎藤一らかつては脇役であった彼らが支持を集めるようになってきたことも確かである。

その容貌や思想、生年月日さえはっきりしない沖田総司ではあるが、近藤や土方を剣で支え、幕末史にその名を残した一人であることは確かなのである。その彼がここ千駄ヶ谷で生涯を閉じたことは、これからも人々に語り継がれていくことは間違いないだろう。池尻橋から北に目をやると、大京町交番交差点が見える。古地図に照らしてみると、そこには小川に架かる小さな橋があり、橋の袂に水車があったことが記されている。日当たりの良い離れの一間から、自らの死期を予感しつつ、総司も川のせせらぎと水車の軋む音を耳に、一時心を和ませたのではないだろうか。

(1)今戸八幡神社の沖田総司終焉之地碑は、菊地明氏が書いた記事『沖田総司はどこで死んだか*』が切欠となり建立されたという。また、その碑文は95年に亡くなられた橘流家元橘右近の晩年の筆によるものである。碑には建立年月日は記されていないが、93年の紹介記事があるためそれ以前と思われる。(* 歴史読本セレクト「新選組」収録)

(2)昭和3年に発表された「新選組始末記」には総司終焉の地を今戸八幡としていたが、翌年の「新選組遺聞」では千駄ヶ谷に変更された。これは始末記が永倉の「同志連名記」に寄ったのに対して、遺聞では近藤勇五郎談話のとおり取材による成果であると思われる。しかし、遺聞は新徴組として庄内にあった沖田林太郎、実姉ミツが最後を看取ったという誤りも書かれている。私の書架にある昭和33年刊行「新選組始末記」は子母澤自らが自選した改定版で千駄ヶ谷説に変更されている。あとがきで、「生き残りの老人達の話は疑わしいものもあったが、歴史というのではなく現実的な話そのものの面白さを成るべく聞きもらすまいと心掛けた」と書いている。一方、子母澤が編纂に参加したと推測されている昭和3年刊行「戊辰物語」は当時のまま今戸八幡死亡説が掲載されている。

**「新選組隊士遺聞」(昭和48年刊)収録

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