官兵衛の兜 黒田騒動の中心人物栗山大膳が伝えた至宝

豊臣秀吉の軍師であった黒田孝高が実際に着用していた唯一現存する兜が、岩手県盛岡市のもりおか歴史文化館に所蔵されている。現在放送中の大河ドラマ「軍師官兵衛」のオープニングにも登場するだけあって、全国の博物館への出張展示が引切り無しの人気だという。

この兜は大膳の父である栗山備後守利安(善助)が、如水孝高から直接譲られたものである。寛永年間の黒田騒動の際に、盛岡藩へお預けとなった大膳利章の子孫が後に南部家に召抱えられ、これを献上したのが当地に伝わる由来である。

慶長九年(1604年)三月、孝高は今際の際に備後利安に筑前守(長政)への補佐を遺言し、九州征伐で使用した合子形兜と唐革縅の鎧を与えた。お椀を逆さに伏せた形の合子形兜は、官兵衛の正妻光の実家櫛橋家から贈られたもので、常に戦場で身に着けてきたものだ。官兵衛はこの兜が余程気に入っていたのであろう。善助に与えた兜が後年のもののようだから、同じ形のものを幾つか作らせていたのかもしれない。そして、それこそが今話題になっている現存する官兵衛の兜なのだ。

あくまで私の個人的な見解なのだが、三大御家騒動の一つといわれる黒田騒動は、他の伊達家や前田家とは異なり流血沙汰が一切なく、しかも関係者が平和的な決着をみるという落としどころとなっている。史実だから仕方ないといえばそれまでだが、私としては何となく腑に落ちない。言ってみれば筋書通りのお家騒動だったのではと思えるからだ。そういう意味でも、大膳が自ら身を引く代わりに黒田家を救ったという解釈は妥当といえるかもしれない。もっとも、地元福岡では評判が悪く、藩政期には栗山姓の使用は認められなかったという。(1)

大膳は盛岡藩にお預けになったが、百五十人扶持で居所三里以内の徘徊苦しからずという恵まれたものだった。南部家からは厚遇され、承応元年(1652年)三月一日62歳で生涯を閉じた。実をいうと彼が盛岡に持っていった合子形兜であるが、二代藩主忠之公の命により一度藩に返還しているのだ。それは父である備後利安が亡くなった後で、公はお家の宝ゆえ備後亡き後他家に留めておくべきものでないというのが理由であった。大膳もこれには従わざるを得ず返還したのである。ところが、公はこれを側近の家老倉八十太夫に下賜してしまった。新参だったゆえに、それに見合う家宝が必要とのことで。これに怒った大膳は十太夫の宅にものも言わず乗込み奪い返したそうだ。

心情的には黒田家の宝は福岡にあるべきだと、地元の人々が思うのは当然である。しかし、これも歴史が生み出した事件に付随した実に面白きエピソードに他ならない。それゆえ、私は官兵衛の兜は未来永劫盛岡にあるべきだと思っている。

(1)黒田騒動の関係者で唯一人割りが合わなかったのが、大膳と対立した忠之公が引き立てた仕置家老の倉八十太夫である。黒田家から暇を出されたのは、老中の内旨(これも筋書き通り?)があったからだとされている。

参考文献 「列藩騒動録」海音寺潮五郎

この記事は読売新聞2014年2月17日版を元に書かれたものである。

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コメント

  1. makimaki より:

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  2. Yubarimelon より:

    makimakiさん、ご訪問ありがとうございます。

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