義僕甚三郎 本懐を遂げた赤穂四十七士を労った近松行重の家来

江戸時代の浮世絵師歌川国芳が描き、版元海老屋林之助が弘化四年(1847年)に刊行した錦絵『誠忠義士伝』は、討入姿の赤穂四十七士を描いた全51枚の連作である。この程、兵庫県赤穂市立歴史博物館は最後の一枚を入手し、コレクションをコンプリートさせた。全作品を揃えている国内の施設は、東京都立中央図書館と大石神社(兵庫県赤穂市)に次ぐ3番目だそうだ。

赤穂四十七士近松勘六の家僕甚三郎は、元禄十五年十月七日大石内蔵助らと共に主人が江戸へ下向する際に同行していたが、討入が近づいたことで暇を出されていた。亡き内匠頭と直接関係のない者の同行は一切認めないのが方針だったが、甚三郎は討入当夜、一行の跡をつけ、浪士たちの同情者大石三平、佐藤条右衛門、堀部九十朗らと共に吉良邸の門外で待ち受けていた。そして、本懐を遂げた四十七士らへ懐に詰めておいた餅と蜜柑を配った。空腹と喉の渇きをいやした浪士たちから、これは気の利いた用意だとして大いに感心されたという。

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『大尾 鹿松諫六家僕塵三郎 大尾とは完結のこと。この絵がシリーズ最後の一枚となった』

以前勘六の記事を書いた際、甚三郎に関しても少しだけ触れたことがありました。甚三郎は近松家の所領があった野洲郡中里村(現滋賀県野洲郡中主町比留田)の生まれ、早くから仕えていた。勘六が肥後細川家にお預けとなった後、中里村に帰り本家近松以井に仕えている。

勘六は遺言の中で、甚三郎を含む被官していた十六人に対して、自らの田畑百六十石を均等に譲り与えたが、それらは分割されることなく後世に渡り共同で耕作され続けた。現在に至る彼らの後裔は、主人の恩に報いるため、毎年二月四日に輪番で義士の法要を行っている。

今回、赤穂市立歴史博物館が収蔵した『大尾 鹿松諫六家僕塵三郎』はそれまでの50枚で完結していた『誠忠義士伝』の続編の予告として追加されたものだったそうです。ですが、大尾というようにシリーズはここで完結してしまいました。実をいうと、当時の忠臣蔵の浮世絵はどれも見得を切る戯曲化された役者絵ばかりでした。西洋の技法を学んでいた国芳は、そうしたものではなく『誠忠義士伝』では実在に近いリアルな赤穂四十七士を描くことに挑戦したのです。もちろん、当時はご公儀を憚って元禄赤穂事件を取り上げることは出来ませんでしたから、ここでも浄瑠璃の配役として描かれているのは言うまでもありません。残念ながら、写実的な肖像画を取り入れた国芳の挑戦は、大首絵などの役者絵に慣れ親しんでいる大衆には受け入れられませんでした。そのために続編は打ち切りとなってしまったのです。

ところで、『鹿松諫六家僕塵三郎』の一枚を含めた全51枚の作品ですが、赤穂浪士は四十七人です。残りの3枚はというと、『高野武蔵守師直』、『塩谷判官高貞』、『早野勘平常世』となっています。高野師直は吉良上野之介、塩谷高貞は浅野内匠頭、そして早野勘平は萱野重実三平がモデルです。萱野三平は中折の四士として紹介したことがありました。『仮名手本忠臣蔵』の中では主役の一人です。

それにしても、『誠忠義士伝』というわりに吉良上野介が入ってるのはどうしてか、と思う人もいるのではないでしょうか。もちろん、これは写実手法を取り入れた錦絵の新たなる挑戦だとしても、販促の建前上はお芝居の役者絵という一面も持っていたわけです。高野師直は敵役ですが、主役の一人でもあります。しかも、当時の人気俳優が演じるのが慣例になっていたようなので外すわけにはいかなかったかと思われます。それに、下の写真を見て頂ければ一目瞭然。『塩谷判官高貞』こと浅野内匠頭の絵と並べてみると、松の廊下で斬りかかられる場面が完成します。つまり、『高野武蔵守師直』と『塩谷判官高貞』は2枚一組なんです。

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当時こそ、国芳の写実技法は世間から受け入れられなかったかもしれませんが、現代の私たちにしてみれば、『誠忠義士伝』を通じて四十七士が実にリアルに蘇ってくる気がします。絵にこそ描かれてはいませんが、負傷し池に落ちたずぶ濡れの主人近松勘六の痛々しい姿に、気が気でない家僕甚三郎をイメージすることさえ難しくはないはずです。

この記事は毎日新聞2014年8月16日号を下に書かれたものである。

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