野根山事件 土佐安芸郡二十三士処刑から150年の節目に企画展が開催される

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元治元年(1864年)に土佐藩で起きた野根山二十三士の処刑から今年で150年を迎え、地元安田町の安田まちなみ交流館「和(なごみ)」で企画展「国難に殉じた郷土の志士」が11月25日(火)まで開かれている。

野根山事件は、土佐藩に投獄されていた武市瑞山の赦免、及び攘夷を実行に移した長州藩に同調しない藩庁への批判も含め、安芸郡田野村(現高知県安芸郡田野町)の郷士清岡道之助を中心とした23人が武装集結し、これを反乱と受け止めた藩が兵を動員、一時阿波に逃れたものの捕縛され、審問も開かれることなく奈半利川河原で全員を処刑した事件のことである。

この凄惨と云うべき二十三士処刑に立ち会った中岡源平の妻お絹の証言が、地元の親族に以下の如く伝わっている。(1)

「二十三士莚ノ上ニ着座セリ 其前ハ巾壱間ニシテ、深サ壱間位ヒノ長キ溝ヲ堀リタル際ニ列座ス 而シテ一人毎ニ首ヲ切ル 切ラレシ人ハ何レモ首ガ前ニ落ツルヤ体ハ立揚ガラントスル処ヲ、首切リ役ガ後ロヨリ腰ノ所ヲ蹴込メバ身体溝ノ中へ逆落ス 二十三士ノ首ヲ切リ終ル迄去ルコト能ハズ 其物凄サ言語ヲ以テ尽クスコト出来ズト 涕ヲ払ヒ追想談ヲ聞カサル(後略)」

事件の起きたその年、前年の政変で京を追われていた長州藩が、軍勢を率いて東上するという報せを受けた土佐在郷七群の郷士庄屋ら土佐勤皇党同士は、投獄されている武市の救済と藩内における尊攘派の復活を画策していた。高知城下西に集まった席で、東西に散らばる七郡の同志が一斉に蹶起すれば再び風を起こすことが出来ると考えたが、意見の一致を得ることは出来なかった。 (2)

だが、強行派であった安芸郡田野村の清岡道之助は、同志23人だけで行動を起こすことにした。彼らは七月二十五日に蹶起し、武装して野根山に集結。瑞山の赦免が通らなければ、阿波方面に逃れた後、京へ進軍中の長州藩に合流する計画であった。しかし、この日は奇しくも長州が禁門の変で敗走した一報が土佐に伝わる前日であった。

二十三士は安芸郡田野芝町の旅籠でささやかな宴を張った後、二十六日に野根山の麓岩佐番所(関所)に入り、番頭の木下嘉久次に道之助と清岡治之助との連署嘆願書を藩庁へ届けさせた。(3)

これに驚愕した土佐藩では23人の郷士に対して、大監察小笠原唯八に数百の藩兵を付け討伐するよう命じた。戦闘を避けて阿波へ逃れた一同は、八月一日に藩境宍喰関所で徳島藩に足留めを食らい、抑留させられた後に牟岐に移送され、徳島藩の監視下で一ヶ月を過ごした。九月三日に小笠原が身柄を受取り、田野浦へ移送された五日に悉く首を刎ねられた。(4)

道之助の実弟半四朗と共に禁門の変後の京洛の情勢を探索していた中岡慎太郎は、この事件の一報を知るや大石弥太郎らへ宛てた手紙に、「瑞山及ビ二十三士厳刑ヲ蒙リ候由風聞承リ 実ニ以テ言語ニ絶シ悲憤極リ申候」と嘆いている。天下の現状が今のようでは如何に仕様もない。同志達にはくれぐれも慎重にと、自重を促している。

土佐藩政を一時支配していた土佐勤皇党の弾圧、及び武市半平太の投獄による郷士らの反発を藩庁が神経質になっていたことが、わずか23人の郷士に対して過剰な程の軍勢で追討させた表れであったといえます。

さて、自らの赦免のために二十三名の若い命が失われた事件について、当の武市はどう考えていたのであろうか。

獄舎での生活はすでに一年近くになろうとしていたが、上士扱いであったこともあり、世の情勢を比較的容易に知ることが出来ていたようだ。その七月二十四日の手紙には禁門の変について書いており、尊攘派の敗北を知り自らの行く末にある種諦めの境地になり掛けた頃であった。「花依清香愛 人以仁義栄」の漢詩を添えた獄中自画像を描いたのも、野根山に二十三士が武装集結した前後であったと思われる。

道之助が七月二十六日に藩庁へ届けさせた連署嘆願書の中で半平太を、「右人々(武市)乍不及モ尊攘ノ大義二基キ 国家ノ御為御尽力仕者トハ相見ヘ可申 既二是迄 相応時勢御用ヲモ被仰付置居候者二御座候間(中略)」と赦免すべきに価する人物であると。

一方、半平太は八月一日付けの次姉奈美と妻富への手紙で野根山事件に関して、「誠二誠二ケシカラヌ事 アノヨフナクダラン事ヲスル人ガアルト 御上カラハ千羽ヒトククリ二見テ 口ヤカマシク言フ者ハ皆々アノヨフナモノト思ヒ正義ノ人ニ迷惑ニ相成候ト存ジ申シ候」と書いている。

武市が生きてさえいれば、必ず新しい時代が来るであろうと信じて死についた二十三士がこの手紙を読んだらどう思ったであろうか。何とも冷淡な言い方である。だが、同時期の手紙には禁門の変を起こした長州藩が朝敵扱いされた件に関して、朝敵なら征伐すればよい、長州は長州。お国(土佐)はどこまでも官軍として振舞うべきだとも書いている。

土佐勤皇党の結成以来、武市にとって天朝様こそ第一であり。天皇による政体の実現と、それを支えるのは容堂公と土佐藩であるという太い柱がここに至っても変わらなかった証拠だといえよう。彼の冷たい言い分は、自分個人の命などどうでもよい、それよりこの大事な時期に勤皇を謳う自藩の者が騒乱を起こせば、結果として好機を逃すだけではないか、と読むことが出来る。

この後、土佐勤皇党の血盟者であった坂本龍馬や中岡慎太郎らが時代を動かす原動力の一つになった。しかし、彼らも新しい世を見ることはなかった。半平太、龍馬、慎太郎、志を遂げずに倒れた多くの勤皇党の同志や志士達、多くの屍を乗り越えた上にようやく維新は実現した。悲惨、無残の形容が頭にくる二十三士の死も、これらの礎の一つであることは間違いない。

(1)中岡源平は中岡慎太郎の義兄である。当日源平が病で立ち会うことが出来なかったため、お絹が代わりを務めた。

(2)土佐藩在郷七郡とは土佐、長岡、吾川、香美、高岡、安芸、幡多である。

(3)木下嘉久次は、二十三士最年少16歳であった木下慎之助の兄である。兄弟共に奈半利川河原で処刑されている。

(4)小笠原唯八は、戊辰戦争を戦った板垣退助率いる土佐藩迅衝隊の小隊司令を務めた。甲州勝沼の戦いで近藤勇率いる新選組を敗走させた後、関東・奥羽戦役を戦うが会津戦争において戦死している。

主な参考文献 「陸援隊始末記」平尾道雄、「土佐勤王党始末」嶋岡晨、「中岡慎太郎」宮地佐一郎

*この記事は読売新聞2014年10月20日号を下に書かれたものである。

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2014.12.5 画像を追加しました。

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