聖骸顕示 フランシスコ・ザビエルの遺骸が10年振りに公開される

インド南部の都市ゴア州オールドゴアで、天文十八年(1549年)に日本へ初めてキリスト教を伝道した宣教師フランシスコ・ザビエルの遺体が10年振りに公開された。

日本における2年間の布教活動の後、インドへ戻ったザビエルは、日本人が彼の教えを尊いものだと理解しながらも改宗にまでは至らない理由を次のように答えを出していた。日本人は常に中国を先進国として見習ってきた歴史を持っていることから、神の話が尊いものであるのに、何故中国人はキリスト教を信じないのかと疑問を感じる者が多かったためだという。

日本での伝道を成功させるためには、まず中国での布教をひろめてからだとする計画は、インドへの船便の中ですでに考えられていた。天文二十年(1552年)、広東の牢獄に囚われているポルトガル人の釈放を求める使節として入国の機会を得たザビエルであったが、この計画は直前になって頓挫した。同年八月下旬、純粋な布教を目的として、広東沖合の上川島(現広東省江門市)に渡航した。この島は当時明とポルトガルの密貿易の拠点であった。明国での布教は当然認められていないため、多額の賄賂を使い本土への密航の機会を伺っていたが、賄賂を渡した中国人は現れなかった。その間にザビエルは病に倒れてしまい、手当の甲斐なく十二月三日に永眠した。享年47歳だった。

ザビエルの臨終の瞬間は、最後まで付き添っていた忠僕アントニオの手記が残されている。寒風が吹きすさぶあばら家の中で、最後の時が近づいた上人の手に火を点した蝋燭を握らせると、ザビエルは傍らの十字架を見つめ、イエズス・マリヤの御名を口ずさみながら眠るように亡くなったという。

遺体は棺に石灰を詰めて、上川島の海岸に埋葬された。石灰を入れて腐敗を早める処置をした理由としては、将来どこか別の場所に移す必要が生じる可能性があるだろうからだった。この時埋葬に立ち会ったのは、従僕のアントニオとクリストファル、マラッカから乗船してきたポルトガル船の2名の水夫で、衣服を着替えさせて納棺したため、それまで身に着けていた古い法服や所持品を4人が形見として分け合っている。(1)

1553年二月十七日、ポルトガル船が出航する際、遺体を持ち帰れるならそうしたいと願う従僕らの希望から、確認のため二ヶ月半振りに棺を開いてみた。すると、信じがたいことに遺体は納棺した時と同じままで、しかも腐臭どころか馥郁たる香りが辺りに立ち込めたという。マラッカに運ばれたザビエルの遺体は、上人を知る者達によって石灰が取除かれ、白布で覆われた。死してなお、生けるが如しその遺体の噂は瞬く間に広がり、一目拝顔しようと人々が棺に押し寄せた。

同年十二月、イエズス会からの命により遺体はゴアへ移された。上人を拝顔したいと願う市民の熱狂振りはマラッカのそれをはるかに超えるものであった。街中の全ての鐘が哀悼を込めて鳴響く中、陸上げされた棺に接吻を望む人々が溢れかえり、聖パウロ大聖堂への運搬は困難を極めた。

列席者5000人以上という壮大な儀式の後、1554年三月十六日から3日間、信者達の希望により拝顔が許可された。信者達は涙を流し、足に接吻し、罪の赦しを乞い願った。展示を終えた遺体は、聖堂の地下室に安置されたが、毎年のように記念日(命日)に聖骸顕示は行われた。しかし、その度に遺体が損傷していくため、1755年四月二日を以てポルトガル政府の許可なく拝観は出来なくなった。また、その都度医師による遺体の調査報告書も作られるようになった。

ところで、この顕示の最中に、イザベラ・ド・カロンという貴婦人が右足二本の指を噛み切り持ち帰るという事件が発生した。後に1本は戻され、現在生誕地スペインのザビエル城に納められている。残りは長くカロン家の家宝とされてきたが、所有者が次々と代わり、19世紀末にリスボンの貴族の手に渡ったいうことだ。この最初というべき聖骸顕示中の十七日朝、二人の医師によって遺体の検視が行われた。ザビエルの左脇に傷があり、そこに修士が手を入れたところドロドロとした血液が付着したと報告されている。

ザビエルは生前も多くの人から尊崇されてきたが、その死後時と共にその度合いは益々熱を帯びてきた。それは、彼を聖人の列に加えるべく運動も当然の如く各地で湧き起ったことでも判る。1556年、教皇庁はインドにおけるザビエルの事績調査を開始、これにより彼の伝記が数多く出版されるようになった。その結果、欧州全土で彼の遺物、遺体の一部を手に入れたいという人々の希望が起き始めた。

1614年、イエズス会総長アクゥヴィーヴァは遺体の右腕を切断し、ローマへ届けるよう命じた。切り取られた右腕の肘から指までの下腕部がローマへ送られ、イエズス会の本部ジェズ教会に現在も保存されている。肩から肘の上腕部は二つに分けられ、一方は失われたが、片方がマカオの聖ヨセフ教会に現存している。(2)

1619年、ザビエルは教皇パウルス五世により福者の列に加えられ、1622年には聖者に列せられた。遺体はその翌々年に新しく建てられたボム・ジェズ聖堂に移され、今日に至っている。

聖人となったザビエルへの尊崇は加熱するばかりであった。それは、同時に遺品と遺物への所有欲を高めるものであったことは言うまでもない。結局、信者ばかりでなく、パンプローナの政治家やイエズス会上位メンバー、僧侶、更にはザビエル城の管理人らが共同で請願したこともあり、イエズス会総長はポルトガル政府と相談の結果、遺体から内臓を摘出しこれらを細かく分解し、ヨーロッパとインド各地に分配するよう指示した。(3)

記事写真に見えるザビエルの遺骸は明らかにミイラだと思われる。1859年の顕示の際に行われた遺骸の調査によると、身長は収縮して4フィート半、右頭部に僅かだが毛髪が残っている。顔面は暗色で皮膚は乾燥していたとある。また、1931年の顕示の際に製作された記録映画からは、前述の報告書の状態とあまり変わりがなかったとされている。

ザビエルの遺体が腐敗しなかったや、遺体に接吻したら病が治ったなどの所謂「奇跡」に関しての言及をここでするつもりはない。只、信仰を持たない私達日本人からすれば、生前に尊敬を集めた人物に対しての、その死後の敬い方とはかなり異なる風習(?)だと思えるので、そこには深い関心を抱かざるを得ない。ザビエルが日本に蒔いたキリシタンの種は全国に広がり、やがて多くの場面で過酷といえる歴史を生み出した。歴史的な側面から見れば、ザビエルとキリシタンの歴史への興味は尽きない。

主な参考文献

「ザヴィエル」吉田小五郎

(1)二人の水夫の一人、フランシスコ・ダ・ギアールはザビエルの片方のブーツを手に入れたことから「長靴のギアール」と綽名された。その形見のブーツであるが、コチン(現インドケーララ州コーチ)でイエズス会神父に奪われてしまったと孫に話している。一方、ザビエルが肌身離さず所持していたロヨラ(ザビエルが聖職者への道に入る切欠を作ったパリ大学時代の学友。ザビエルと共にイエズス会の創立メンバーの一人)の署名、イエズス会への宣誓書を入れた銅製の箱は4人の誰かの手に渡ったが、現在行方不明である。

(2)ジェズ教会の右腕は、ザビエル日本上陸400年と450年を記念して、昭和24年、平成11年に国内の主要都市で巡回展示が行われた。

(3)寛永十四年(1637年)夏、マニラ、琉球、薩摩を経て日本に上陸した宣教師マルセロ・マストリリは、長崎で拷問の後殉教した。その際、ゴアで手に入れた腸を粉末にして煎じた妙薬を将軍に献上したいと、その死の間際まで望んでいたという。

*この記事は産経新聞2014年11月22日版を元に書かれたものである。

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