千馬三郎兵衛光忠 主君への直言も厭わない堅物さと遺される家族への気遣いを併せ持つ一途な義士

赤穂四十七士千馬三郎兵衛と大石内蔵助の妻りくが三郎兵衛の遺児藤之丞に近況を知らせた手紙が、群馬県前橋市で発見された。鑑定の是非はまだだが、仮に真筆であるなら討入後も遺族間で交流があったことを証明する貴重な史料となりそうだ。

三郎兵衛光忠は承応二年(1653年)の生まれ、祖父内蔵助は仙石兵部忠政の下で大阪の陣を戦ったが討死にしている。父求之助は摂津高槻藩の藩士であったが、後に浪人した。光忠は同族で赤穂浅野家に仕える三郎兵衛光利の養子となり、二十歳の時に家督を継ぎ、三郎兵衛を名のっている。

千馬氏の祖は桓武平氏千葉氏である。鎌倉時代からの名家であったが、室町の頃から衰え、戦国時代にはそのほとんどが滅んでしまった。そのため、各地を放浪した子孫が先祖の名を汚さぬよう、千葉から千馬に改名したのだという。

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『誠忠義士伝 千葉三郎平満忠』

三郎兵衛は有職故実に通じ、武家の礼法、書法に明るかった。しかし、その性格が古武士のように剛直だったため、筋の通らないことを腹に納めてくことが出来ず、口から吐き出さねば気が済まなかった。それは、主君内匠頭でさえ例に漏れず、その都度不況がられることもしばしばであった。元禄十年ついに癇気にふれ、閉門となり、禄高を百石から三十石に減らされてしまった。

元禄十四年三月、江戸在勤のおり、江戸家老安井との衝突を機に離藩を決意し、荷物を大阪の兄へ送り届けた処に内匠頭の凶報が届いた。三郎兵衛は危機に瀕した御家を見捨てること、御公儀の君主への処置は共に武士の義に反していることとし、義挙への加入を決意した。

今回新たに発見された書状は、元禄十五年(1702年)六月、三郎兵衛の後妻おぎんの父津川門兵衛に宛てたものだという。残念ながら、現段階では真筆か否かは調査中だそうだが、仮に本物であるなら内容にある歩くことも困難な程足の痛みを嘆いていることは、当時三郎兵衛が江戸に潜伏中の同志との打合せのため、上方との間を幾度も往復していたことと符合する。

また、同書状からは三郎兵衛の別の一面を垣間見ることが出来る。それは、身重の妻を心配しながらも、子供が生まれることを楽しみにしていると書かれた一文だ。実は、義士達は本懐を遂げ切腹の処分が決定した後、預けられたそれぞれの藩邸で「親類書」の提出を求められた。これは血縁者等の有無を確認する身元調査書といえるもので、詳細に自らの家族や親類を証言した義士もいたが、全く伏せていた者もいた。三郎兵衛は後者の方で、おぎんと生まれたばかりの藤之丞宣忠に罪が及ばないよう証言しなかったと思われる。

内匠頭との溝が埋まらなくとも、それはあくまで私事であり、浅野家再興のために尽力する事を公とし、迷うことなく義挙に参加した。一面では、筋の通らないことへは口に出さずにいられない融通の利かない性格であり、その一方、残される家族のことへの気遣いも忘れない優しさも持ち合わせている。それが義士千馬三郎兵衛光忠の実像ではないだろうか。

主な参考文献

「正史忠臣蔵」福島四朗、歴史読本編「忠臣蔵」のすべて

*この記事は東京新聞2014年12月5日版を元に書かれたものである。

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