伊達兵部大輔宗勝 無念にみちた余生、土佐高知での記録

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且又兵部少輔ハ 先代之様子渕底乍存知 一入為不届之条 松平土佐守ヘ御預ケ

伊達兵部宗勝は江戸時代、仙台藩最大のお家騒動寛文事件の中心人物である。

土佐高知へ配流

寛文十一年(1671年)四月三日、兵部宗勝は、立花左近将監鑑茂、大井新右衛門政直、妻木彦右衛門と共に幕府評定所に召し出され、大目付大岡佐渡守忠勝、寺社奉行戸田伊賀守忠昌より山内土佐守豊昌への御預けを命ぜられた。豊昌公はその日のうちに評定所から芝三田の下屋敷へ、錠前を掛けた籠にて兵部の身柄を移し、同月十五日に178人の警護を付けて江戸を出立。二十八日、大阪で船に乗り換え、五月六日に土佐高知浦戸港に到着した。

仮に酒井雅楽頭邸における原田甲斐宗輔の刃傷が無かったとしても、「両人不和之故 家中仕置等不宜 年々刑罰之族不絶而  家中之輩 不成安堵之思」の兵部の責任は免れなかったであろう。

配流された土佐での残された記録と史跡から、その後の生涯を追ってみた。

「南路志」は、土佐国の歴史、地理、民俗等をはじめ様々な資料を網羅した大著です。その第64巻に、「伊達兵部少輔宗勝殿御預リ之事」という項目があり、ここに、兵部が土佐への配流が決まってから、その死に至るまでの詳細な記録が残されています。(1)

側に仕えた家臣たち

一 同日酉上刻御屋敷ヘ御落着 御家来七人無異義供仕」(孕石日記)

土佐へ着いた兵部は、高知城下屋敷に一先ず落ち着いた。江戸より従ってきた家臣七名は、杉村孫右衛門、渋谷吉兵衛、西森清兵衛、曽根惣兵衛、大槻斎(宮)、瀧田小右衛門、千葉左五右衛門。彼らは、主の死までそばに仕え、忠勤を尽くしたという。(2)

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『高知城天守より高知地方裁判所を望む 明治9年までは同所が高知城御下屋敷であったと伝えられる』

小高坂山麓に移る

一 兵部殿御差置被成候御新宅出来 十二月三日御移」(孕石日記)

十一月三日、小高坂配所之御普請出来候ニ付、御移被成 兼而被仰渡ゴトク、兵部殿、幷御家来ヘモ刀、脇差、御渡被成候、配所、三方堀二而、南ニ門有、御留守居組十三人、勤番被仰付シト也、兵部殿御預リニ付、他國人、御國ヘ猥ニ出入不仕樣ニ堅被仰付之旨、御家中ヘ相觸事」(伊達騒動実録)(3)

城下北西に位置する小高坂山の麓に、新しい配所が建てられ、兵部と家臣が移ったことが記録されている。共に大小の所持が許されているものの、四方を厳重に警備され屋敷への出入りは制限されていた。この配所の位置は、一説に現在の高知小津高校の場所に当るとされるが、詳細は不明である。一方、明治二十六年刊行の「土佐遺蹟志」(福島成行著)には以下のような記述がある。

小高坂村、田畑一町四方ヲ塡メ、新屋敷ヲ構ヘ之ニ居ラシム、寛永地震後高知市街ニ散在セル寺院ヲ移シ、寺町ト唱エシモ、依然、伊達屋敷ノ稱ヲ存シ、元文二年、農民ニ移住ヲ許シ、字ヲ新屋敷ト稱セリ

新屋敷の由来

地元高知では、新屋敷という地名が兵部の配所が出来たことが由来だと伝えるものもあるが、兵部存命中は伊達屋敷と呼ばれていたようだ。しかも、その死後、藩庁が寺町と改名したところ、余程馴染み深かったせいか伊達屋敷の名称はそのまま残されていた。結局、兵部没後57年の後に跡地への移住が許るされてはじめて新屋敷の名称が定着し、現在に至ったという。

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『正保土佐国城絵図に高知城北西に描かれている小高坂山 兵部の配所が建てられたのは東側のひらけた平坦地であった』

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『地名が現在も残る兵部の配所があった新屋敷を高知城天守より望む 左端に見えるのは小高坂山の東端部分』

兵部宗勝の扶持

寛文十二年三月迄は、兵部の生活費は御賄で、それ以降は配流が決定した際に裁可された御扶持米五百俵、並びに衣類代銀一貫三百目が遣わされている。また、心を落ち着かせる為に茶を薦められた処、好みだという上林三入の茶を同年七月に取り寄せたことが記されている。それに伴い配所で小坊主を一人召使う要望が出され、十二月に公儀から領内の者であるなら苦しからずと許可が下りている。(孕石氏寛文十二年日記)

兵部宗勝の死因

延寳七年、十一月廿一日、松平土佐守豊昌ニ預ケラレシ伊達兵部宗勝、死シケレバ、小姓組妻木彦右衛門頼保、検屍ニツカワサル」(徳川御實記)

延寳七年未、霜月四日、於御國卒也、(中略)兵部殿、三萬石、土佐國ニ御預ケ、配所ノ内、亂心ノヨウニ見ユル」(南路志)

宗勝、配所ニ在ル、怏々トシテ楽シマズ、心鬱シ狂ナラムトス、時ニ腰腫レ(中略)、延寳七年、十二月四日、其邸ニ卒ス」(土佐遺蹟志)

趣味の茶や、各地へ配流された家族との手紙のやり取りも中身を改められはしたものの許可されていたが、心の平静を得る事は出来なかったようだ。乱心の様子は配所の外にまで洩れ、噂が広まったのかもしれない。兵部のはっきりとした死因は伝わっていないが、病死であったとされている。茶への嗜好、心鬱、乱心、腰痛、これらの要因から想像するに高血圧による脳血管障害か、心疾患であったのではないか。享年58歳。(4)

五台山吸江寺に眠る

検死の後、遺骸は豊昌公も御対面され、吸江寺住侶明巌に引渡し小高坂山で荼毘に付された。墓所は五台山吸江寺に建てられ、二夜三日の法事が行われたことが「南路志」に記録されている。法名は、「東岳院前兵部大輔従四位下峰山紹雄大居士」。なお、墓石には輪の中に九曜の紋が刻まれているとあるが、現在は墓碑名ともに磨滅していて判読は難しい。位牌は、高さ凡そ二尺五寸で輪なしの九曜紋が法名の上にあるという。現在の吸江寺は廃仏毀釈後に再建されたものだが、「土佐遺蹟志」に明治四十年吸江庵で確認されたことが記されてるので、現存していると思われる。

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『兵部の墓碑は明治年間にはすでに一部判読が困難であった 写真は磨滅してしまった輪あり九曜紋』

帰国した家臣たち

御家来六人、極月廿五日出船、大坂迄、衣斐次左衛門、御差添被成、壹人ニ金子拾両宛被遣事、但、右之外、御家来壹人ハ、前方果候

最後まで付き従った家臣らは、翌月帰国の途に就き、各自の知行地に戻った後仙台藩に帰参している。なお、一人だけ土佐国で亡くなった者がいた。「伊達騒動実録」には、それは千葉左五右衛門だったのではと書いている。(5)

廟所

兵部の廟所は、県立五台山公園の駐車場横に案内板があり、200mくらい下った山の中腹にある。坂道は石敷になっていて山道にしては道幅がある。私が訪れたのは季節もあってか人気は全く無かったが、墓所は人の手が入り荒れている印象ではなかった。只、罪人とはいえ、父政宗公の派手好きな一面を受け継いだとも言われる兵部の墓にしてみれば、寂寥の感は拭えなかった。

維新前までは、この墓所のために山内家より毎年油三升、米三石が寄付されていた。その後、荒れ放題となっていたため、
明治三十年頃伊達伯爵家からの寄付金があり、清掃はされるようになったのだろう。それにしても、いくら幕府から押し付けられた罪人とはいえ、山内家は礼を尽くしていたとしかいいようがない。さぞ、存命中は定められた範囲であろうが、決して不自由な生活を強いられることは無かったことが想像出来る。

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五台山から見渡せる鏡川と国分川が合流する浦戸湾(高知港)の景色は一見の価値がある。 故国から遠く離れた土佐高知で眠る兵部宗勝にとって、もし慰めというものがあるのだとしたら、それは種崎と桂浜を過ぎ、遥か奥州へと続く太平洋へ注ぐ眼下の眺めではないだろうか。

注釈

(1)「南路志」は、文化十年に高知城下の豪商武藤到和とその子平道が編纂した120巻におよぶ業書です。その原本は戦災により失われてしまったそうですが、写本を元に高知県立図書館が出版し、現在も閲覧することが出来ます。

(2)「伊達騒動実録」から、西森清兵衛は西成田清兵衛、大槻斎は大槻斎宮と「南路志」の誤記は明らかだが、本文のまま記載した。なお、兵部の流罪が確定した後、奥州一関三万石は改易となり、元々の領地であった仙台藩に返され、家臣約360人も帰参した。

(3)小高坂の配所に移ったのは12月3日が正しいようだが、記述は著書のままにしています。

(4)研究者の中には、兵部の死因を熱病によるものだとする人もいる。

(5)「伊達治家記録」延寳八年九月六日壬戌の条に、「伊達兵部宗勝死去ニ就テ、配所ヨリ歸参ノ家士等六人ニ知行俸金米ヲ賜フト、云々」とあり、千葉を除く六人がそれぞれ賜った額が記されている。(伊達騒動実録)

余談

余談ではあるが、「土佐遺蹟志」は兵部の墓の乾(北西)の方角に、配所の召使との間にできた赤子の墓があることを記している。配流された人の子を挙げることは許されていなかったため、延寳五年巳六月十八日に胎死したとある。墓碑名は正面「伊達兵部□□息墓」、右「延寳五年」、左「八月九日」と刻まれている。

また、吸江寺塔中には、兵部の佩刀備前國長船次郎左衛門尉藤原勝光作が伝えられてきたが、維新以降は行方不明だという。

その他の参考文献

「伊達騒動」平重道、「伊達騒動と原田甲斐」小林清治、「一関藩」大島晃一

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