寿福院 加賀百万石の母芳春院との生涯で只一度の対立

「寛永の三筆」と称された芸術家・本阿弥光悦が、前田利家の側室で、三代前田利常の生母である寿福院に送った直筆の書状が発見された。

寿福院は、「加賀藩資料(系譜)」に「側室。千世、また於千代保・東丸殿。元亀元年(1570年)生る」とあり、利家の正室まつ(芳春院)が最も信頼を寄せる侍女であった。

文禄の役の最中、肥前名護屋城の陣中にて懐妊し、まつのもと金沢城に帰還。文禄二年(1593年)、猿千代(のちの利常)を産んだ。

利家の死後、髪をおろし寿福院と号す。慶長十九年(1614年)、十六年間徳川の人質となっていた芳春院に代わり江戸に下向。寛永八年(1631年)、当地にて没す。享年六十歳。

文禄元年(1592年)、名護屋に陣を張る諸将の士気が萎えることを考慮した秀吉は、陣中に正室または身の回りの世話をする女性の参陣を許可した。利家からこの一報を受けたまつだったが、留守を守るため自らが名護屋に赴くわけにはいかず、侍女であった千世を指名し送らせた。まつにとって、この派遣が単に夫の身の回りの世話をする以上の意味もあったことは承知していたはずで、それ故に千世ならばと送り出したのであっただろう。

秀吉の側室茶々が身籠り大阪に帰国したと同じ頃、千世も体の変調を感じ、この知らせを受けたまつはすぐに千世の帰国を促し、金沢城に迎えた。文禄三年、秀頼誕生の三ヶ月後に千世は、まつが見守るなか、利家の四男利常を産んだ。

寿福院と芳春院が不仲であったという説もあるが、信頼関係のあった二人であり、前田家の世継の母となっても、正室の侍女としての姿勢は崩さなかったと云われている。

ただ、一度だけ二人の意見が食い違った出来事があったことも確かである。それが、利常の異母兄で、関ヶ原の役に参戦しなかったため改易させられた前田利政の嫡男直之の処遇に関してだ。

慶長十年(1605年)、利常に前田家を継がせ隠居した先代利長に、芳春院は直之を預けた。この時点で利常に男子がいなかったため、芳春院は直之を次の前田家当主にと考えたようだ。しかし、利常も正室珠姫もまだ若かったこともあり、これは藩の将来を考えれば禍根を生じる結果になりかねない。寿福院も異を唱えざるをえなかったであろう。

結局、この問題は元和元年(1615年)に利常の長男犬千代(のちの四代光高)が誕生するまで尾を引くことになる。元和三年に芳春院は金沢で没し、祖母の化粧料地を継いだ直之は利常に仕え、その家系は加賀八家の筆頭重臣の地位を占めることとなった。

寿福院と芳春院の不仲説は、この10年間の継嗣問題から来ていることは明白である。二人がその間に顔を合わせたのは、徳川の人質として入れ替わる江戸での一度だけだったので、もしかしたら気まずい雰囲気だったかもしれない。その時の逸話に尾ひれがついて、不仲説が広まった可能性はある。侍女であったことを忘れず、寿福院は常にその意向を伺いながら、芳春院を立ててきた。二人が生来の不仲であったということは決してないはずである。

*この記事は読売新聞2015年2月22日版をもとに書かれたものである。

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参考文献

「前田利家」岩沢愿彦、「戦国女系譜」楠戸義昭

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