八ツ鹿踊り 政宗公より賜いし九曜の星を背負った八人の鹿

昭和五十七年、現在の宮城県南三陸町戸倉水戸辺の高台土中から、この地区に伝わる鹿子踊の享保九年銘供養碑が発見された。表面には、「奉一切有為法躍供養也」、この世に生きる全てのものの供養のために躍りを奉納せよと刻まれていた。この発見は、長らく水戸辺地区で途絶えていた鹿踊り復活の契機となった。

宮城県北部及び、岩手県南部の旧仙台伊達領、旧盛岡南部領内に伝わる鹿踊は、鹿に扮した踊手たちが祖霊供養を奉納する伝統舞踊である。地域によって流派が存在するが、一応に鹿の頭部を模した被り物と全身を反物で覆い、丈余のササラ竹を背負い鹿のように飛び跳ねるように舞う。それゆえ、発見された碑文にもあるよう、鹿踊は踊るではなく躍ると表記されるのが相応しいとされる。

また、多くの鹿踊の流派の中で、衣装の幕ダレに伊達家の御家紋である九曜紋をあしらう一派がある。それが、宮城県栗原市一迫に伝えられる一迫八ツ鹿踊りだ。(1)

政宗公は余程この踊りが気に入っていたようで、いくつかの流派に九曜紋を与えている。中でも一迫八ツ鹿踊りの幕ダレには、紋と一緒に拝領した『行参』の文字が大きく書かれているのが特徴だ。これは、毎年仙台城へ踊りを披露しに行って参れの意味だという。

猟師の勘太郎は山で鹿を射ることで暮しを立てていた。だが、その息子は父の殺生に対し心を痛めていた。ある日、狩猟を止めようと鹿の皮を被り山に入った息子を、勘太郎は見誤って射抜いてしまった。息子を殺めてしまったことを嘆いた勘太郎は、弓を捨て、我が子の供養のために鹿の姿で踊ったという。これが一迫八ツ鹿踊りの由来である。

重心を常に低くしながら、尚且つ太鼓を叩き飛び跳ねる。数ある伝統舞踊の中でも、八ツ鹿踊りを習熟するのは年月も掛かり難しいとされている。

12種の演目がある八ツ鹿踊りだが、その中でよく披露されるのが、『女鹿隠舞い』である。座長である中立演じるボス鹿が想いを寄せる女鹿との仲を妬んだ仲間の鹿たちが、女鹿を隠してしまう。ボス鹿は悲しみ、太鼓を叩きながら観客の中から女鹿を探そうとする。この時女鹿と間違われた人はその年の縁起が良いとされている。ようやく女鹿を見つけたボス鹿は、髪を振り乱して大地を蹴り、全身で喜びを表現し演舞のクライマックスを迎える。(2)

発見された供養碑のある水戸辺地区の鹿子躍をはじめ、被災地の鹿踊り保存会は東日本大震災により大きな被害を被った。あれから4年間という時間は流れたが、それ以前の状態を取り戻せたということはない。失ったものは大きく、決して戻ってくることはない。しかし、碑文が語るよう、供養のために踊ることこそ鹿踊りの本質であるなら、今を生きる人たちが、それを絶やすこともないであろうと思う。

(1)衣装はカヤ製で、反物から一つづつ手縫いされている。頭部の角は金華山に生息する神鹿(しんろく)の角が使われている。

(2)一迫八ツ鹿踊りのその他の演目は、入掛舞い、三つ狂舞い、二つ狂舞い、案山子踊り、縄舞い、皆狂い舞い、安着返舞い、竿引き舞い、笹踊り、坊主踊り、供養舞い。

現在、宇和島市の無形民俗文化財に登録されている宇和島八ツ鹿踊は、政宗公の長男秀宗公が伊予国宇和島に移った際、当地に伝えられたとされている。

*この記事は、河北新報2015年3月19日号を元に書かれたものである。

参考文献 宮城通本2013

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