大田・絵堂の戦い 維新史から葬られた長州藩の佐幕派

幕末、長州藩の諸隊と萩政府軍の内戦、「大田・絵堂戦役」から150年を機に、勝利した奇兵隊をはじめ諸隊が本陣を置いた山口県美祢市美東町大田の金麗社において、同戦役戦没者顕彰碑の除幕式があった。

元治二年正月(1865年)、萩藩政府(俗論派)は、筑前に逃亡中であった高杉晋作が武装決起したことを知り、追討軍を絵堂(現山口県美弥市美東町)に派遣した。下関功山寺で晋作が決起した当初は、遊撃隊80人程しか同調しなかったが、同月二日下関の伊崎新地会所を襲撃した際、挙兵の趣旨を記した高札(討奸檄)を掲げ、同様の文書を奇兵隊及び諸隊に送ることではじめて正義派の足並みが揃うこととなった。

同月七日、絵堂に兵を進めていた栗谷帯刀率いる追討軍1000余名に対して、未明に奇兵隊、南国隊、膺懲隊の兵200が奇襲を掛け、これを敗走させた。更に諸隊は絵堂背後の大田、長登、秋吉を占領。狭隘な絵堂の地が防戦に不向きだったので、大田を根拠地とした。

戦闘は10日あまり続き、装備の優劣と圧倒的な民衆の支持を得た諸隊側の勝利で終わった。こうして、長州藩は幕府への恭順から一転、維新へ続く倒幕へと舵を切ることとなった。

幕末・維新の長州藩の史書『防長回天史』には、以下のような記述がある。

「大抵、清風等の為す所一定の計画あり。(中略)坪井等は則ち之れに反し、流俗と競はず、人心を失はざるを以て主となす。是れ俗論の名を得し所以なり」

高杉晋作が率いた奇兵隊ら諸隊の倒幕派を正義、椋梨藤太を首領とする佐幕派を俗論とする呼称に対し、当時の価値観ならともかく、今日それらは甚だしい違和感があることを誰もが感ずるであろう。『防長回天史』は伊藤博文の命の下編纂されたものゆえに、維新回天の中心であった自らを正義と称し、それに敵対した派閥を俗論としたのも頷けないわけではない。当然ながら椋梨らが自らをそう唱えたことなどあるわけがない。それでも、この呼名がそのまま彼らを、維新の英雄である高杉たちに敵対した悪として、そのイメージが近年まで歴史として伝えられる結果となってしまった。

上記した『防長回天史』の一文は、天保期の長州の藩政改革を推進した村田清風と坪井九右衛門を評したものだが、その後村田の路線を踏襲したのが周布正之助で、坪井の後には椋梨が続き、大田・絵堂の戦いまで藩内で相対する政争を続けた二つの派閥の相克はこの時から始まった。

しかし、彼らは常に幕末同様の抗争を行っていたわけではない。村田も坪井も藩の厖大に膨れ上がった借財の問題を解決するために召集されたメンバーだった。村田は「三十七ヶ年賦皆済仕法」で改革を強行しようとしたが、既得権益を侵される藩内の商人や藩士らの反対にあい失脚した。村田に代わり坪井らのグループが行った「公内借捌」は、藩内からは好意的に受け入れられたが、結果的に借金を増やす結果となった。

こうして両派閥は失脚と台頭を繰り返し幕末へ時を進めてゆくが、彼らは互いの政策を引継ぐこともあり、決して平行線ばかりを辿っていたわけではなかった。

「だから、明治維新以降に編まれた、「正義派」を「正義」とする維新史の中で、晋作の下関挙兵は過度に美化されていきます」とするのは、長州維新史研究家一坂太郎氏の著書『長州奇兵隊』である。

著書は続けて、昭和48年に下関市長府功山寺に完成した晋作が挙兵した時の騎馬像に関して、「平成のこんにちなお晋作の挙兵を「回天義挙」と呼ぶことに、私は少なからぬ抵抗と疑問を感じています。本当に晋作は銅像のような英雄然とした気持ちで、立ち上がったのでしょうか?」

禁門の変を起こした責任をとることで正義派は失墜した。代わりに台頭した佐幕派は第一次幕長戦争回避のために、諸隊に解散令を出し、正義派三家老に自刃、四参謀を処刑した。幕府への絶対恭順を方針としたことを不服とした晋作は、藩内の抗争に決着を付けないかぎり武力倒幕は実現出来ないと確信し挙兵に踏み切った。

だが、晋作の心情としては、同じ郷土の者同士での殺し合いなどが本位であったはずない。それでも、藩内の骨肉の争いを制しなければ、自らの志と一緒に日本国も滅んでしまうという強い危機意識が彼を動かしたのであろう。

もちろん、これは晋作一人だけの問題ではない。長州人である諸隊のほとんどの者が同じような思いで戦いに臨んだはずだ。それは、大田・絵堂の戦いで敗れた萩藩政府軍40数名の遺体を、勝利した諸隊側で丁重に処理し合葬之墓を建てたという事実があることからも確かなのだ。現在、これらの墓石は失われてしまったが、諸隊隊士が残した日記には記述が残っている。(1)

こうして明治以降、椋梨藤太をはじめ長州藩幕府恭順派の真実は、正義派に敵対した俗論派という悪役に形を変え伝えられていった。しかも、正義派の戦死者たちのように靖国神社に合祀された者は一人もおらず、顕彰碑さえ建てられることはなかったのである。

しかし、今日正しい歴史を認識し伝えたいという地元の人々の思いが、戦没地に倒幕派・恭順派戦死者の名前を共に刻んだ顕彰碑を建立するにまで至ったのだ。恭順派の史料は、明治以降徹底的に消されてしまったが、歴史を見直す思いは、今後の研究を一層進めるであろう。

現在、放送中のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、今後文久から元治にかけての長州の倒幕派と佐幕派をどう描いてゆくのだろう。それは、これからの楽しみの一つといえるだろう。

その他の参考文献

「幕末の長州」田中彰、「高杉晋作」梅渓昇

(1)『諸隊追討略日記』一月十日条項

関連記事 #高杉晋作

*この記事は山口新聞2015年3月9日号をもとに書かれたものである。

*記事の転載は厳禁とします

error: Content is protected !!