渡辺長男と明治天皇御乗馬像

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東京都多摩市都立桜ヶ丘公園。初夏の陽光と新緑の木陰が作り出す明暗の林道を歩いてゆくと、そこには日本の古き良き時代を想起させる歴史的建造物、旧多摩聖蹟記念館がひっそりと佇んでいる。

明治十四年(1881年)二月十九日、宇津貫、御殿峠(現八王子市)で狩猟を行った明治天皇は、翌日東京へ帰還する予定であったのを、急遽連光寺村への行幸をお決めになった。二十日午前に到着され、昼食後、向ノ岡から榎田山、山ノ越、天井返にかけて兎猟を行い、この日6羽を収穫された。同年六月、連光寺に再び行幸された天皇は、一ノ宮から大丸山(現稲城市)にかけて鮎漁を天覧、多くの見物客であふれかえったという。

翌年、現在の多摩市東部から稲城市、川崎市麻生区の一部は「御遊猟場」に指定され、大正六年の廃止まで「連光寺村御猟場」として成立し、天皇は数度の行幸を行っている。

明治天皇と幕末維新の志士たちを顕彰していた元宮内大臣田中光顕は、昭和二年、連光寺村周辺の聖蹟の保存もかねて、多摩聖蹟記念館を建設、昭和五年(1930年)11月に開館した。この記念館の目玉ともいえるのが、当時、彫刻界の重鎮であった渡辺長男が原型制作をした「明治天皇御乗馬像」である。(1)

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『販売されている明治天皇御乗馬像のポストカード。館内の撮影は禁止だが、係の方に一言声をかければ良いことがあるかもしれない』

宮城県大崎市主馬神社の木像と東京都明治神宮外苑聖徳記念絵画館の剥製、二つの明治天皇御料馬「金華山号」を観賞した私としては、このブロンズ製騎馬像を観に行かないわけにはいきませんでした。

古代ローマの遺跡を想わせる円形ドーム型の記念館の外周には、天皇が連光寺を行幸された際に下賜された品々や、田中伯が収集された西郷隆盛をはじめ、幕末維新功労者たちの遺墨や絵画などが展示されている。そして、記念館中央に堂々と鎮座する高さ3mあまりの騎馬像が、アバラ骨付軍服で愛馬金華山号に跨り、険しい表情で眼下の多摩丘陵を眺望するお姿を捉えた「明治天皇御乗馬像」である。

当時騎馬像の原型を見た者から、明治帝は「もっとにこやかであらせられた、作者を変えさせよ」と田中伯に注文が相次いだ。その旨を渡辺に伝えると、毅然として、「明治大帝の御精神を後世にお遺しするのだ。単なる芸術品とは違う。御年三十歳、しかも、明治十四年といえば国内外とも文字通り多事多難の時だ。実は、もっとおきついお顔にしたいと思ったくらいだ」という返答であった。

渡辺長男は明治七年(1874年)大分県大野郡朝池町の生まれ、先祖は摂津で、伊丹有岡城主荒木村重に仕えていた渡辺彦左衛門であるという。村重謀反の後、茨木城主中川清秀の家臣を経て、弟中川秀成に仕え、秀成が播州三木から豊後岡城に移って以降代々百石前後の禄高で幕末まで続いた。(2)

彫刻家を志した長男は上京、東京美術学校在学中に仏像彫刻を山田鬼斎から、洋行帰りの長沼守敬からは欧州の技術を学んだ。明治三十年、大村西崖の支援を受けて高村光太郎らと青年彫塑会を結成し、日本彫刻の独自性を追求した。(3)

渡辺長男の彫刻といっても、ピンとこない方でも京都三条大橋東詰にある御所を望拝する高山彦九郎像は一度は見たことがあるはずだ。(現在のものは二代目、昭和3年に除幕された初代は戦時中に回収された)

明治天皇騎馬像は、天皇が崩御直後に田中伯が御尊像建立を発願し、宮中内で製作された等身大立像の作者であった渡辺に再び依頼したものである。(4)

記念館は多摩丘陵公園内の平日ということもあろうが、ハイカーたちが一時の休憩に利用しているように普段から見学者が多いというようには見えない。観る者が見れば実に充実した内容の展示品であるにもかかわらず、入場料金が無料であるのも驚きだ。特別展なども時に行われているようだが、今以上に注目されてよい施設であることは誰の目にも明らかだ。

戦後、金属回収を免れたにもかかわらず東京旧万世橋駅にあった広瀬中佐像が撤去されたように、軍国主義を連想させる銅像への風当りは相当のものであった。銅像審査委員会なるものから、この明治天皇騎馬像へも軍服姿ゆえに問題であるとクレームがあったという。(5)

私は帰り際にもう一度騎馬像を見上げ、たび重なる困難な時代を乗り越えた日本を見つめてきた陛下の厳しい目に、今のこの国はどのように映っているだろうかと考えてみた。

生活が向上し、戦争のない平和な国家としての地位、その一方で他人行儀な人間関係が横行し、将来に夢を持てない社会。自由で幸せな生活と引きかえに、私たちは日本人、日本という国を忘れてしまった、と言ったのは山岡荘八である。より良き未来を築くための反面教師が歴史であるとするなら、それを体現しているのが歴史遺産であり、世界的に知られてるものもあれば、各地に人知れず埋もれているものも多いであろう。それらを修復、保存し、語り継いでゆく。小さな事しか出来なくとも、継続してゆくことこそ大事ではないか。

結局、明治天皇と幕末維新の英傑たちの前で、私は自身の小ささを嘆き恐縮するしかないのである。

主な参考文献

『連光寺の「聖蹟」化と多摩聖蹟記念館』多摩市教育委員会、『日本の心 銅像は生きている』杉田幸三

参考にさせていただいたサイト

朝倉彫塑館

(1)記念館の建つ大松山の土地所有者は、新選組局長近藤勇の孫宮川半助であった。当時、半助は困窮のため国民新聞に「畏くも明治大帝三度行幸の地、京王線関戸駅付近向ヶ丘に近接せる丘地」として当地を売りに出していた。新選組と因縁のある田中伯の発願を聞き知り、半助は罪滅ぼしにと三万坪を寄付したという。

(2)豊後岡城址にある「荒城の月」作曲者瀧廉太郎の銅像は、長男の実弟朝倉文夫の手によるものだ。

(3)「彫塑」は、美術評論家大村西崖が提唱した造語である。明治はじめまで、仏像や象牙制作等日本の彫刻は彫り刻んでゆく技術であった。西欧の銅像制作法が入ってきた後、これと粘土でかたちづくる技法である塑造とを組み合わせた言葉。しかし、日本で浸透することはなく、塑造を含む広義の意味で「彫刻」と呼ぶのが一般的となってしまった。

(4)現在、この等身大立像は茨城県大洗町の「幕末と明治の博物館」に収蔵されている。

(5)広瀬中佐像を渡辺長男、杉野兵曹長の像は朝倉文夫が製作した。

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