川村吾蔵とマッカーサー元帥胸像

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70年前の八月の太陽を今日と同じように受けていた東京日比谷第一生命ビル。周辺一帯が空襲の被害を免れ、往時の俤を残すその建築様式は、平成における再開発の際にも、外壁だけは保存され外見は当時のままを私たちに今も伝えている。

少々意味合いは異なるが、全国各地に遺る戦争遺跡の保存が強く叫ばれるようになったのも、悲劇を再び繰り返さぬよう後世に歴史を伝える手段を一つでも多く残すためだ。

昭和20年9月15日、GHQがこのビルの6階社長室を接収してから27年9月27日に返還するまでの6年10ヶ月、連合国軍最高司令官ダグラス・F・マッカーサーが執務を取り続けた一室だけは、改装された第一生命ビルの中で唯一当時のまま保存されている歴史的文化財である。

戦後70年節目の平成27年7月、マッカーサー記念室は事前の公募で当選した人達に向け一般公開を行った。

受付で本人確認を行った後、20名程のグループ毎にエレベーターで6階の記念室を見学することになる。20分の見学時間は設けられていたが、混雑した様子もなく写真撮影をしながらリラックスして見て回ることが出来た。記念室の印象は当時のままということもあって、一昔前の豪華な応接室といった印象。それでも、ここから農地改革や教育改革等の今日の日本の基礎を形作る法令が生み出されたことを考えると感慨深い思いにさせられる。

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戦争と日本という歴史を再確認する一方で、私がここを見学したかったもう一つの動機が、部屋の片隅に鎮座する川村吾蔵制作のマッカーサー元帥胸像を間近で見たいがためであった。

川村吾蔵は明治18年長野県臼田村(現南佐久郡臼田町)の生まれ。同37年に画家を志し渡米。ニューヨーク・ナショナル・アカデミー美術学校在学中に彫塑家としての才能を開花させ、卒業後の42年に渡仏。米国人彫刻家フレデリック・ウィリアム・マクモニスを師事し、国立エコール・デ・ボザール美術学校に入学した。在学中、特待生の資格を得た吾蔵はオーギュスト・ロダンから数度に渡り弟子の勧誘を受けたが、何れも丁重に断りを入れている。マクモニスはロダンよりも名声こそ低かったが、子供のいなかった師との関係は実の親子のようであったという。

大正2年、彫刻愛好家であった米国ニューヨーク市長マイランは、ブルックリン出身のマクモニスにワシントンスクエアの平和凱旋門・戦勝記念碑像の制作を依頼。師と共に再渡米した吾蔵は、日米関係の悪化にともない昭和15年に帰国するまでの20数年間、アメリカ国内の数々の巨大モニュメント彫刻の制作にたずさわることになる。

飯沼信子氏の著書「彫塑家・川村吾蔵の生涯」の中でも書かれているが、若き日の吾蔵が渡米した本当の理由は、画家を志した以上に当時の徴兵制度を避けたいがためであったとされている。兵士になることも嫌であったが、戦争そのものの無常さを嫌悪をしていたということだ。

時勢に反し戦争に関わることを避けながらも、吾蔵の半生はある意味戦争と大きく関わっていたともいえる。彼の生きた時代が戦争の世紀であったのは言うまでもないことだが、当時の彫刻そのものも日米を問わず、国威高揚のためのプロパガンダとして生み出されたものが殆んどであった。

マクモニスの助手として米国で制作を行った凱旋門をはじめ、ブリンストン大学ジョージ・ワシントン戦勝記念碑、米国大統領アンドリュー・ジャクソン、セオドア・ルーズベルト騎馬像、ロバート・E・リー将軍騎馬像など、すべて彼の手によるものだ。

太平洋戦争開戦前の昭和11年、帰国した吾蔵は郷里の長野に疎開した。敵国アメリカからの帰国だったため、周囲からの疑いの目を気にしながら肩身の狭い生活を強いられることになる。彼が米国で、芸術家としての名声をどれだけ得ていたかなど誰一人知るはずもなかった。

戦後、マッカーサーは日本に民主主義を根付かせるため、芸術家たちの後援を活発に行った。昭和21年1月、吾蔵は長野県庁を通じて、旧日本軍関連施設接収のための通訳官として出頭するようGHQより命じられた。米軍関係者の中で、彼をワシントンスクエアの凱旋門を制作したアーティスト・ゴゾーであることを覚えてた者は少なくなかった。吾蔵を尊敬していた陸軍のアイケルバーガー中将は、彼を海軍のデッカー中将に託し横須賀基地の美術最高顧問に抜擢した。

基地内のアトリエで、アイケルバーガー中将胸像、デッカー中将夫妻胸像を制作した吾蔵は評判となり、マッカーサー元帥も自らの胸像制作を依頼した。だが、胃がんに蝕まれた吾蔵は制作段階で幾度となく体の不調を訴えていた。どうにか、原型石膏を完成させるまでに至ったが、ブロンズ化した完成品を見ることなく、昭和25年3月11日にその生涯を閉じた。享年66歳。

マッカーサー記念室の胸像は観る者を引き込まざるを得ない。騎馬像のように動を表現したものでない分、静かに佇むその表情の刻まれた皺の一つ一つにまで、歴史上の人物の永遠性を感じずにはいられない。後世に人は名を残すと云われるが、まさしく肉体を離れた魂がこのブロンズ像に宿ってるかのような気にさせられた。

吾蔵夫人をはじめ、残された家族によって鋳造し完成したマッカーサー元帥胸像は、子息アーサーの胸像と共にマッカーサーが帰国する際に米国へ渡った。現在、この二つのブロンズ胸像はウエストポイント陸軍士官学校にて保管されている。(1)

(1)第一生命ビル・マッカーサー記念室に展示されているマッカーサー元帥胸像は、吾蔵の郷里長野県佐久市川村吾蔵記念館に保管されている石膏原型を下に鋳造されたものである。

参考文献

「彫塑家・川村吾蔵の生涯」飯沼信子

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