馬場出雲親成 真筆ならば唯一現存する政宗公自筆画が発見される

仙台藩祖伊達政宗が描いたとされる画が宮城県塩竈市の旧家で保存されていることが判った。これまで政宗公自筆の絵は現存していないとされていたが、真筆と鑑定されれば唯一のものとなる可能性がある。

戦前、宮城県内に政宗公の自筆とされる画が2点確認されていたが、現在は行方不明だという。公表された「貞山公御自筆梅雀画」は、春先のまだ寒さの残る陽だまりの中、綻んだ梅の枝に寄り添い暖を取る二羽の雀が描かれている。

記事から、公は絵を学んだことはないらしいが、画は江戸期前半の狩野派の画風ということだ。

政宗公自筆画の可能性が高いと云われる所以が、画を贈られた人物とそれを受け継いだ子孫の由緒が正しかったことからだ。箱書に「馬場出雲拝領」とあり、この人物は伊達家家臣着座馬場親成のことである。出雲親成は、幼名卯之松、天正十三年、十六にて小手森の戦いで首級を獲、摺上原では先陣をきって会津の本陣に攻めた。次いで、人取り橋、須賀川の役で戦功。慶長五年の白石の役では殊功を樹ち、公より采地敷邑を賜い、大阪両度の役においても戦功があった。 (1)

寛永五年(1628年)、領地伊具郡筆甫(現宮城県丸森町筆甫)の邑民と相馬領民が山林争いを起こし、相馬側が幕府に訴えたため、親成が処理に当たり論弁してこれに勝訴したとある。

事件の経緯に関しては、津本陽の歴史小説「独眼龍政宗」の中で取り上げられている。あくまでフィクションではあるが、要約すると以下の通りだ。

相馬領宇多郡山神(上)村、天領玉野村と伊達領伊具郡筆甫村の境界にある鍋宇津山から公儀御用を称して、相馬藩の役人が木材を勝手に切り出した。筆甫村の住人がこれを咎めたが、御用木ということで伊達藩は取り上げなかった。ところが、その翌年伊達藩家臣が鍋宇津山に材木を切りに行ったところ、相馬藩からこの山は自領ゆえ切らせないと抗議してきた。筆甫の村人からしてみれば、前年は公儀御用ということで黙っていたが、鍋宇津山はもとより筆甫村のものだとして、これを藩政府に訴えた。実状を検分した仙台藩宿老山岡重長と大条実頼は、非は相馬側にあるとして藩主相馬利胤に説明したが、公は納得せずこれを幕府に上訴した。(2)

寛永五年という年は、政宗公が完成した若林城に移った年でもある。江戸で亡くなるまでの8年間を過ごした隠居のための城に出雲親成も呼ばれ、当時の思い出話に花を咲かせたのではないか。親成は三歳違いの同世代、公が戦ったほとんどの戦に参戦し功を挙げている。成実や綱元はまだ現役だったとはいえ、公の子供たちの後見に忙しく気軽に会うことも儘ならなかったはずだ。景綱をはじめ、華やかなりし戦国の当時を共に語れる臣が少なくなってしまった政宗公にとって、親成は大切な存在だったのではないだろうか。

公開された「梅雀画」、政宗と梅といえば真っ先に朝鮮から持ち帰った「臥龍梅」が思い浮かぶ。仮にこの画が真筆であるとしたら、遅咲きの臥龍梅が花を咲かせた頃、若林城に呼ばれた親成に手ずから描き授けたと想像するのも難しくはない。

(1)仙台人名大事典

(2)小説では元和七年(1621年)、仙台人名大事典では寛永五年(1628年)と記述があるので親成が当たった訴訟とは別件かもしれない。だが、現在でも宮城県丸森町筆甫の県境は福島県相馬市山上、玉野にまるで打込まれた楔のように食込んでいる。当時は兎角問題の起こりがちな場所だったに違いない。

*馬場氏は延宝四年(1676年)に平賀に改姓している。馬場氏の祖が平治の乱で源義朝に従った平賀義信であるからだ。それゆえ、寛政年間に編纂された「伊達世臣家譜」には平賀姓で記述されている。

*この記事は河北新報2015年10月29日号を下に書かれたものである。

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