邨田丹陵と大政奉還図

大政奉還150年記念プロジェクト

2017年10月に大政奉還から150年を迎える。各地で幕末維新150年のイベントと並行して、京都をはじめ大政奉還150年記念プロジェクトも開催されている。

人は言葉に対して、そのイメージを思い浮かべるもの。個人の名前からはその人の容姿を頭に描くのは至極普通のことだ。

私達は「大政奉還」という言葉からは何を思い浮かべるだろう。坂本龍馬や二条城、そして教科書にも載っていた邨田丹陵の「大政奉還」図をイメージする人も多いのではないだろうか。ドラマの一場面でもこの画を元に再現しているものがほとんどである。

しかし、大政奉還とは大まかにいえば幕府が朝廷に政権を返上するということのはず。ところが、当の画には天皇や公家衆の姿はどこにもない。将軍慶喜が大政奉還を決断した時の描写であろうから、間違いではないが、どこか違和感を感じるのは私だけではないはずだ。

150年の節目となる今、大政奉還という史実に光が当てられているが、何より多くの人が大政奉還と真先に結びるけるのは邨田丹陵の画であることにも疑う余地はない。検証とは云えないが、あらためて「大政奉還図」に注目してみることにした。

丹陵の父は田安徳川家家臣

邨田丹陵(むらた たんりょう)が昭和10年に描いた「大政奉還」図は、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に収蔵されている。縦300×横250㎝の大作で同じ規格で描かれた歴史絵画80点の中の一枚だ。(1)

 邨田丹陵は明治五年東京の生まれ名は竧、父は田安徳川家の家臣であった。土佐派を学び、歴史絵画を多く残している。代表作となった大政奉還図を丹陵が描くことになったのは、ある意味必然であったといえるだろう。

収蔵されている全ての画が奉納というかたちをとっているのもこの絵画館の特徴といえる。大政奉還図が将軍慶喜を中心に描かれているのも、画を奉納した公爵徳川慶光の意向であったであろうことが想像できる。

さて、京都の二条城を訪れたことのある人ならすでに知っていると思うが、この画は慶応三年十月十二日の描写である。画の背景である二の丸黒書院は別名「桜の間」と呼ばれ、大広間に次ぐ公式の場であった。襖絵は狩野探幽弟尚信の筆によるものだ。

慶応三年十月十二日を描いた「大政奉還図」

単に慶応三年十月十二日の描写だけでは如何にも乱暴なので、ここで史実である大政奉還の一連の流れを整理してみよう。

慶応三年十月十二日、将軍慶喜は二条城二の丸黒書院に在京幕府有司を呼び大政奉還の決意を表明。

翌日十三日、十万石以上の四十諸藩重臣を二条城二の丸大広間にて同様の決意表明をした。

翌々日十四日、高家大沢基寿を参内させ大政奉還の上表を提出させた。

同月十五日、慶喜自身が参内し、政権を返上する趣旨を述べ、朝廷はこれを了承した。

同月十六日、慶喜は在京十万石以上の諸藩重臣を二条城に呼び、大政奉還が成立したことを告げた。

同月十七日、在京一万石以上の諸藩重臣を二条城に呼び、大政奉還が成立したことを告げた。

これが将軍慶喜が自ら演出したという大政奉還の一連の流れである。(2)

下絵段階は十三日の描写だった

もう少し細かく描写するなら、十月十三日二条城大広間で老中板倉勝静から慶喜の決意を聞いた時、召集された諸藩重臣たちは特に意見はなかったとされている。また、板倉が意見があるものは居残るようにとしたため、薩摩小松帯刀、安芸辻維岳、土佐後藤象二郎、福岡孝弟、宇和島都筑荘蔵、岡山牧野権六郎の6人が残り慶喜に意見している。(3)

丹陵は当初、十三日のこの場面を描き完成させる予定であった。ところが、徳川慶光公爵と旧幕家臣団から新政府側の人物ではなく、幕府の人物を描くよう変更を求められ現在の画になったという。この変更希望は明治神宮においても了解を得た。

2.jpg

『「明治天皇御紀附図稿本」より』

この下絵の背景は奉納されたものと違い二条城大広間一の間二の間、すなわち十三日の描写であることが確認出来る。慶喜に意見するため居残った諸藩重臣たち、左から福岡、後藤、辻、小松。奥に板倉勝静。

1.jpg

『奉納された「大政奉還」図、慶応3年10月12日二条城二の丸黒書院にて将軍慶喜が在京幕府有司に政権返上の決意を述べた瞬間を描いている』(①徳川慶喜②松平容保③松平定敬④板倉勝静⑤永井尚志⑥⑦顔を見合わせる在京の幕臣)

奉納者であるスポンサーの意向で現在の形となったのは意外ではあったが、明治天皇の生涯と事績が描かれるべく絵画館の中では異色の一枚であっても、私達が幕末の出来事を単に文字だけでなく、人物たちをも鮮やかに浮かび上がらせ、歴史に思いを馳せることが出来る傑作絵画、それが邨田丹陵の「大政奉還」図であるといえよう。

*この記事は東京新聞2017年9月24日日曜版をもとに書かれたものである。

参考文献

「王政復古」井上勲、「徳川慶喜」松浦玲、「小松帯刀」高村直助、「京のれん2017秋号」木村武仁、「徳川慶喜」家近良樹

注釈

(1)この絵画館の画は当時の華族などから奉納された形式をとっている。描かれた題材はその画に縁のある人物の子孫や関係者で、大政奉還図は徳川慶喜の孫である慶光公爵、結城素明の江戸開城談判図は西郷隆盛の孫である西郷吉之助といった具合だ。

(2)一般的には13日から15日までの3日間が大政奉還であるとも云うようだ。

(3)松平定敬が趣意書を朗読したとする説もある。(「徳川慶喜」家近良樹) また、13日大広間に将軍慶喜は隣席していなかったともされている。居残った6人と意見交換した際には慶喜公自身が大政奉還に至った理由を語っている。

「大政奉還」という言葉は明治に入り作られた言葉である。将軍慶喜の上表文には、「政権ヲ朝廷ニ奉帰」とあり、慶応三年十二月九日に発せられた王政復古の大号令には、「徳川内府 従前御委任大政返上」とあり奉還は使われていなかった。

*画像及び文章の無断転載は禁じます

error: Content is protected !!