温泉マニア西郷隆盛 明治に宿泊した龍宝家を復元し「西郷どん村」をオープン

平成30年度大河ドラマ「西郷どん」放送に向けて、鹿児島県霧島市に明治時代西郷隆盛が狩猟の際に利用した住宅が復元される。それにともない、愛好したとされる日当山温泉に「西郷どん村」が開設されることになった。

鹿児島は源泉数で全国二位

鹿児島県には100の温泉地があり、源泉の数は全国で二番目となる2769にもなるという。また、バラエティに富んだ温泉があるのも当地の特徴ではないかと思う。

篤姫でお馴染みの指宿温泉の砂風呂はよく知られている。明治九年七月に西郷が訪れた桜島の有村温泉は、海岸に穴を掘って湧き出た温泉に入るというものらしい。

これほど温泉に恵まれた土地に生まれ育った者であれば、たとえ西郷隆盛でなくても温泉が生活の一部にならざるを得ないだろう。(1)

全く仙境に御座候

「當地ノ温泉場初メテ参候處、霧島山ノ後ニテ半腹二御座候處、餘程景氣モ宜敷湯治人ハ案外多人敷二御座候得共、皆田舎人ノミニテ少シモ氣二障リ候事モ無之、全ク仙境ニ御座候 日々遊山ニテ相暮シ申居候」

故郷薩摩へ下野後の明治九年四月十五日付で行政の人事に関して池上四朗へ出した書簡の中の一文である。これは西郷が粟野岳の半腹にある温泉に入浴中に答書したとされる手紙で、文章の中からも如何にも心地良さそうに湯船に浸かる情景が目に浮かんでくる。(2)

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『温泉マニア』

薩摩と日向に限るが、記録や書簡、及び逸話などで知ることの出来る西郷が訪れた温泉地は10ヶ所が確認されている。

指宿温泉

いくつか例を挙げると、文久二年二月に西郷の奄美大島での遠島の刑が突如解かれ鹿児島に帰還。これは島津久光公が藩兵を率いて上京し、朝廷から幕府に対して幕政改革を断行させるために公卿や諸藩士へ顔がきく西郷の存在が不可欠であったためだ。(3)

しかし、西郷は幕府への根回しもせず、しかも久光公は諸藩との交流もないため計画は失敗するだろうと反対した。それでも動き出した計画を止めることは出来ないため、西郷は公に献策をしたが採用されなかった。

失望した西郷は足が痛いという理由で指宿温泉に引き籠ってしまった。もうどんなことがあっても足をこの湯治場から引き揚げぬという考えだったのだが、諸国の名だたる有志が薩侯上洛を機に乗じて事を挙げようと企てる旨を耳にし、まして薩摩の同志も藩を離れて連携しようとしているらしくここで大事を誤ってはならぬと秘かに鹿児島へ戻った。

一時頭に血が上った西郷さんも温泉に浸かって冷静になってみると、薩藩の一大事にのんびりしてるわけにはいかないと考えを変えたようです。大西郷とも称される人物でありながら、やはり私達と同じ一人の人間であることを思わせてくれます。

吉田温泉

明治二年七月には吉田温泉(現宮崎県えびの市)から盟友桂久武と手紙のやり取りをしています。この時桂も病気療養を理由に某温泉で湯治していて官を辞職するつもりでいるところを思いとどまるよう促すと共に、普段表に出さない西郷さんの本音を手紙にしたためています。

「今日ニ至リ候テハ、獄中ノ賊臣決テ相忘候儀ニテハ更二無之、雲霧ヲ破リ候得バ退テ謹慎可仕杜。先君ノ御鴻恩忘却不仕事ト相明メ居候」

生死を共にと誓い合い本当に同じ日に城山で散った莫逆の友に、本音を包み隠さず洩らしたのは少しは温泉の効果もあったかもしれません。

その同じ吉田温泉へは西南戦争で熊本へ進軍する途中にも立ち寄っています。自分を担いだ薩摩の子弟たちに全てを委ねての出兵でしたが、立ちこめる湯煙の向こうに自らの運命を見定めていたでしょうか。(4)

日当山温泉

さて、記事にある日当山温泉だが、明治以降の記録を見る限り温泉愛好家の西郷さんにとって最も回数を訪れた場所であったようだ。旅館などはなかったので、農家の龍宝伝右衛門宅のおもて座敷を借り、家人と同じように飲食していた。西郷さんは、寝具の始末や掃除など身の回りのことを若い壮士たちにはさせず、ほとんど自分で行っていたそうだ。

当時の龍宝家は現在地とは異なり浴場の向かいにあり、狩猟から帰るとすぐに湯船に浸かれる場所だったという。もっとも温泉といっても、設備は不完全で、元湯(現西郷どんの湯)と呼ばれる共同湯が一つしかなかった。屋根は瓦葺き、四方は板壁で石畳の浴場、石段を三つ下りた湯壺の底は土間のままで男女混浴だった。垢が随分浮いていたが、西郷さんは常に一番垢が多い湯の吐出し口の場所へ泰然と入り、時に野老田夫と同様に石段に寝転んでいたそうだ。(5)

狼藉者をたしなめる

明治二年正月に伊地知正治が大久保利通に出した書簡に、「西郷入道先生、既に四十五日、日當山湯治、犬四五匹、壮士三四人、同道之由云々」とある。当地で頭を丸めた西郷さんは少しばかり堅苦しい人に西郷梅一ですと挨拶したという。これは、新政府の主導により廃仏希釈の運動が全国を嵐の如く駆け巡っていた頃で、特に薩摩ではその影響が強く、藩内の寺院は悉く破壊されてしまった。温泉近くの國分八幡宮の鳥居には、「坊主と不浄の徒入るべからず」という制札を立ててあり、西郷はまず自らが坊主になり狼藉の者をたしなめた。なお、梅一とは、西郷の肩を揉んだ按摩の名前である。この時断髪したハサミが当地岩下家に保存されていたが、現在は失われたそうだ。(6)

「日当山温泉南洲逸話」を著した三島亨は、西郷さんが日当山温泉を好んだ理由として、温泉の効能も然ることながら、その天と地の眺望が素晴らしかったからではないかと推測する。錦江湾に浮かぶ桜島、左右に展開する薩隅の連山、そして清流たる天降川の流れ。山岳重畳に兎を追い、川船を漕いで鮮魚の酢味噌に舌鼓を打ち、温泉に浴して天地の精気を吸われたのだと。当地の自然が西郷先生の性格に相応しい楽天地であったからだとしている。

大河ドラマ「西郷どん」の影響で、かつてはさしたる観光地でなかった日当山も様変わりするだろう。当地を訪れる事が出来たなら、ぜひ、西郷隆盛が愛した閑雅幽境の状景も味わってほしいものだ。

注釈

(1)平成26、27年度の統計から温泉数全国1位は245か所の北海道、鹿児島県は9位で、源泉数1位は大分県で4411ヶ所となっている。

(2)栗野岳温泉は鹿児島県姶良郡湧水町にある。霧島連山の火山性の温泉である。

(3)同じ計画を安政五年八月に島津斉彬公と西郷が立案している。大久保一蔵が時機到来とし、これを久光公に了承実行させた。

(4)「薩南血涙史」加治木常樹著には、明治10年2月19日に西郷が吉田に一泊したとあるが、温泉に入ったという記述はない。

(5)写真の川内高城温泉での史料はないのだが、西郷さんは常に湯の隅を好んで入っていたという逸話が残っている。

(6)西郷さんと西南戦争で亡くなった薩軍の方々が眠る南洲墓地も、廃仏希釈で破壊された曹洞宗南林寺の跡地につくられたものである。

その他の参考文献 『大西郷全集』、『西郷隆盛〜「無私」と「胆力」の人〜』上木 嘉郎

この記事は朝日新聞2017年12月10日号をもとに書かれたものである。

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