大熊氏廣と有栖川宮熾仁親王騎馬像

東京都港区南麻布有栖川宮記念公園。寒が明けてもいまだ陽の力は心もとなく、凍てつく風は厚手のコートも貫く。それでも紅白の梅花は蕾を膨らませ、春が決して遠くないことも感じさせてくれる。麻布台地を活かした園内には残雪が木々の間に見え隠れする。急坂な遊歩道を登りつめた広場までたどり着くと、子供達が夢中になってボールを追いかけている光景が目に入ってきた。

私がここに来た目的は、事情を知らない人にすれば子供らが遊ぶ児童公園には似つかわしくないと考えそうな軍人の騎馬像を見学するためだ。それこそが近代日本彫刻の先駆者である大熊氏廣が制作した「有栖川宮熾仁親王像」なのである。

熾仁親王は長州藩毛利家と縁戚であったこともあり、幕末期に攘夷派公卿急進派の一人であったことで知られている。また、十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮内親王の前婚約者でもあった。征討総督に就任した西南戦争の最中熊本において、官軍薩軍問わず傷病者を救護する博愛社(日本赤十字の前身)の設立を現地で認可されたことは有名だ。明治二十七年、日清戦争中の広島で発病し、翌年61歳で薨去された。

一方、騎馬像の制作者である大熊氏廣は、安政三年に武蔵国中居村八幡木(現埼玉県鳩ケ谷市三ッ和)の富農の家に生まれている。祖父が画家や文人との交流があった影響で幼い頃から日本画を学んでいたという。

明治九年に東京都赤坂区工部省に官立工部美術学校が開設され、氏廣は同年画学科ではなく彫刻科に入学している。「近代日本最初の彫刻家」の著者田中修二氏は、憶測としながらも日本にまだなじみのない分野で入学しやすかったからではとしている。また、官立学校の生徒が兵役を免除されることを望んだからではとも推測している。

工部美術学校は、伊公使アレッサンドロ・フェの謹言により創設されたことから、3人のイタリア人講師が招かれた。その一人彫刻家V・ラグーザから学んだことは、後の有栖川宮熾仁親王騎馬像の制作に大きく影響したと思われる。

トップクラスで卒業した氏廣は、明治十六年建設中であった有栖川宮邸の舞踏室の柱と車寄前飾りの菊の折枝に雄雌鳩の彫刻を担当している。

ヨーロッパ留学を挟んだ明治二十六年に靖国神社外苑広場に大村益次郎銅像を完成させ、二十九年に有栖川宮熾仁親王像に着手することになる。

有栖川宮熾仁親王像は、親王の死後山県有朋、大山巌、西郷従道、川上操六、伊藤祐亭により提唱され、その後委員が選出され計画は実行に移された。

当初、原型制作は公募が考えられていたが、皇族に対しての憚りから生前に親王の尊顔を拝したことのある氏廣と藤田文蔵の二人によるコンペという形が取られた。(2)

参謀本部仮工場で1/4塑像が造られ、帝大教授による委員の審査で氏廣の作品が選ばれた。三十一年九月から三十四年八月に原型塑造を作り上げ、東京砲兵工廠にて鋳造され三十六年七月に完成した。

像の高さ一丈三尺(約3.9m)、重量二千貫、台石は兵庫県六甲山の御影石が用いられている。

親王象は、戦前の参謀本部(現東京都千代田区永田町)前に設置され、昭和三十七年に現在の有栖川宮記念公園に移設された。

『記念公園内の有栖川宮熾仁親王騎馬像』

園内の騎馬像は、台石も含め約4.5mもあるので下から見上げる以外にないのだが、新海竹太郎の北白川宮能久親王騎馬像の動きのある造形に対して静かな趣を感じるのは明らかだ。戦場での一場面を切り取ったような構図の能久親王像は馬上での緊張感も感じられるが、熾仁親王像は表情からもリラックスしたものだ。見上げる私達からすれば、それはモデルとなった親王への憧憬や権威の象徴としての効果が高まる手法といえるであろう。

私は埼玉県鳩ケ谷市にある川口市立文化財センター分館郷土資料館に行き、常設展示してある小型の有栖川宮熾仁親王騎馬像を見学した。上述したように像の熾仁親王の御表情は些かの力みもなくリラックスしたものであることが確認出来た。それは、騎馬を含めた像全体から醸し出す威風堂々たるものであったことは言うまでもない。(3)

平成二十九年に東京芸術大学創立130周年特別展に展示されたラグーザ制作による「ガリバルディ騎馬像」石膏像を見学したが、静かなる騎馬像からは馬上の人物の威厳が強調されていた。氏廣が師から受け継いだ作風は有栖川宮熾仁親王像に活かされていたといって間違いないだろう。

『ガリバルディ騎馬像(石膏)』

『参謀本部前と記念公園の熾仁親王像』

広場の騎馬像の丁度向かいに、記念公園の沿革の碑が建立されていた。そこには、大正二年に有栖川宮家の御用地を受け継いだ高松宮殿下が当地を小学校の郊外授業や一般の児童に開放していたが、昭和九年に東京市(当時)に記念公園として御寄付されたのが始まりだとある。

私は沿革を読んで、児童公園に似つかわしくない騎馬像という表現を訂正しなくてはならなくなった。かつては軍部の象徴であった熾仁親王像は、現在子供たちの自然教育と健康を見守るモニュメントなのであるから。

(1)講師の一人建築家G・V・カペレッティは基礎学科を担当している。来日中に彼が設計した靖国神社内遊就館と三宅坂参謀本部前には教え子の氏廣作「大村益次郎銅像」と「有栖川宮熾仁親王像」が建立された。

『カペレッティ建築による遊就館 関東大震災にて倒壊』

(2)藤田文蔵は大熊氏廣と工部美術学校彫刻科の同期生であり、同じくラグーザから彫刻を学んだ一人。泉岳寺の大石内蔵助像や涌谷城址の伊達安芸像など。

(3)郷土資料館の像は個人からの寄贈のものとだけ説明にあるが、「近代日本最初の彫刻家」には明治二十九年六月「『有栖川宮熾仁親王第一号十分ノ一馬乗雛形』始工」との記述がある。

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