大山菊子 (西郷菊草) 撮影嫌いは父譲り? 兄菊次郎と写った写真が発見される

西郷隆盛が流刑された奄美大島で結婚した島妻愛加那との間に生まれた長女菊子らしき人物が写った写真が子孫宅で発見され、当地龍郷町に寄贈された。

西郷菊草は、文久二年(1862年)七月二日の生まれ。父吉之助(改め大島三右衛門)が、同年正月鹿児島へのお呼び返しの時にはまだ母愛加那のお腹の中だった。

ところが、菊草が生まれた当日、西郷は寺田屋事件前の島津久光公とのいざこざで再び遠島を命ぜられ、徳之島岡前に上陸していたのである。(1)

同年七月十七日付書簡で、大島見聞役の木場伝内より女の子が生まれた事を知った西郷は、八月廿日付で返書をしたためている。

「(前略)女子出生ノ由 是ハ考ニ相違ヒ申候先鞭ニヒ決テ男子ト推計申上候処 女子ノ由何ニテモ乍幽囚モ祝敷御座候 召使置候女ノ儀決シテ渡海不致様 尚又御頼申上候

二番目の子供も男子だと思い込んでいたところ、女子が生まれるとは考えも及ばなかったようである。また、産後の妻を思いやり徳之島には来させないよう伝内に頼んだのだが、菊次郎と生まれたばかりの菊草を連れて、愛加那は八月二十六日徳之島に渡航してしまった。(2)

ニ度と会えないと思っていた妻との再会に、西郷さんも感激一入であったでしょう。ましてや2歳になった菊次郎と初めて対面する娘も一緒だったのですから。ですが、不安は現実のものとなり、久光公は処罰が手緩いと沖永良部島への再遠島を命じ、しかも今回は移送も牢囲いという過酷な扱い。命が助かっただけでも貰い物と考えもしたでしょうが、家族団らんはもう出来ません。母子は再び奄美へ帰らざるを得ませんでした。

明治九年、菊草は鹿児島の西郷家に引き取られた。同二年に学問のため、先に父の下に来ていた兄菊次郎は、米国フィラデルフィアでの留学を終え吉野開墾社で寄宿生活を送っていた。

話は前後するが、同六年正月十八日付で西郷は愛加那に菊草を鹿児島へ寄越すよう手紙を書いている。この手紙は近年発見されたもので、内容は以下のようなものだ。

(自分も)歳を取った故か子供のことを思い出します。女の子はいずれ他家に嫁がねばならないので、母の力にはなれないだろう。(菊草を)こちらで引取り世話すれば母のためにもなるでしょう。菊次郎をはじめ頼りになる者もいるからその身もよろしかろうと考えています

子供を鹿児島に引き取ることが、愛加那のためになると西郷は考えていたようだが、彼女にしてみれば家族が遠く離れてしまうことは寂しさ以外に何があったであろう。(3)

鹿児島の西郷家に引き取られて菊草は、名を菊子と改め同九年十月に大山巌の弟誠之助と婚約している。

大山誠之助は、戊辰戦争を経て陸軍少尉となっていたが、明治六年の政変で西郷隆盛が下野した後、軍を辞め鹿児島に帰っていた。その後、西南戦争に従軍したが、戦後国事犯として刑務所に収監、同十二年に釈放された。帰郷後に菊子と結婚。この時誠之助30歳、菊子17歳であった。

誠之助との間に四人の子供を儲けた菊子は苦労をしていたようだ。夫は定職にも付かず、陸軍大臣となった兄巌の名声の下借金を重ね酒浸りの日を送っていた。(4)

明治二十八年、兄菊次郎が台湾総督府から一時帰国した際、菊子を訪ねている。自ら夫への不満などは言葉に出せなかったため、兄の顔を見るなり涙ぐんでしまった。妹の実情を理解しながらも、具体的に何も出来ない菊次郎は100円を渡し、帰国した時は必ず立ち寄ると約束するぐらいしか出来なかった。

その菊次郎は同年八月に再び台湾に戻る途中、実母愛加那に会うため奄美大島に立ち寄っている。突然の帰郷に喜んだ母であったが、最初に菊子がどうしているか菊次郎に尋ねたようだ。島を離れて二十年以上音沙汰がなく大層心配であったのだろう。菊次郎としても、菊子の現実を母に話し逆に悲しませるわけにもゆかず、元気にしていると言うしかなかった。(5)

明治三十八年、前年に京都市長に就任した菊次郎は妻久子から菊子が京で一緒に暮らすことを望んでる旨を聞かされた。日露戦役で戦地にいる大山巌に相談できなかったが、菊次郎は誠之助に手紙で了承を得た後、菊子、次男綱紀と次女冬子を聖護院の自宅に呼び寄せた。

今回発見された写真は、おそらくこの京都に移り住んだ頃のものではないだろうか。菊次郎が膝に抱いている子供は五女泰子(?)。そうであるなら、菊次郎45歳を過ぎたあたりで、菊子も44歳前後であったろう。

しかし、その四年後の明治四十二年七月に体調を崩した菊子は、九月七日に息を引き取った。肺炎であったという。盛大な葬儀には、東京から義母糸、大山捨松、鹿児島から夫誠之助、大山巌の姉有馬国子、父隆盛の末弟小兵衛の妻松が駆け付けた。墓所の東京杉並大円寺に大山家の一族として葬られた。

菊子にとって、激動の時代の中、苦労の多い生涯であったかもしれない。それでも、晩年に兄と暮らせた京都での生活は安らかな日々であったろうと思う。写真の菊子が実に穏やかな表情をしているのが何よりの証拠であり、そう思うのは私だけではないだろう。

(1)参照:「温泉マニア西郷隆盛

(2)「何レニ度押ノ御手数モ難計 其カラキコト酒塩ナドニテ追付丈ノ事ニハ無之候(後略)」西郷は藩庁から追罰の沙汰があるだろうと予想していた。もしかしたら切腹もありえるだろう。その可能性もあるから島には来させないで欲しいとも手紙に書いたのだが、伝内は逆にそうであれば家族が一緒であったほうがよいと母子を送り出したようだ。

(3)明治二十三年政府官僚尾崎三良が奄美大島に行った際、抜け殻のような愛加那の無残な姿を目撃している。

(4)誠之助は負傷した延岡で政府軍に投降した際、陸軍少将であった兄巌を慮って偽名を使ったようだ。だが、共に宮城集治監(現宮城刑務所、若林城址)に収監された他の薩軍兵士らからは誤解による卑怯者と見做され孤立していたという。

(5)菊子は島を離れた後、生涯一度も帰郷することも母への手紙を書くこともなかった。研究者の中にはその事を冷淡であると考える人もいるようだ。菊子が鹿児島に引き取られて間もなく西南戦争が勃発。鹿児島も戦場となったため、西郷一家は安全のために疎開をくりかえした。また、戦後正妻の糸は子供たちの教育に非常に熱心で、新庄出身の鹿児島師範学校教師だった北条巻蔵を家庭教師に招いている。菊子が無筆であったのではと研究者が推測するのは、巻蔵が残した西郷家の子供らの談話に菊子の名前が出てこないことを理由としている。仮に菊子が無筆であったとしても代筆くらいは出来たかもしれない。しかし、それ以上に金銭的な生活苦と夫のDVに疲れ、他に目を向けられなかったのが母への手紙も出せなかった最大の理由ではないだろうか。

参考文献

「大西郷全集」、「西郷隆盛ー手紙で読むその実像」川道麟太郎、「流魂記―奄美大島の西郷南洲」脇野 素粒、「西郷菊次郎と台湾」佐野幸夫、「歴史読本1999年9月号」、「歴史群像 西郷隆盛」

*この記事は南海日日新聞2018年3月2日号をもとに書かれたものである。

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