酒井雅楽頭忠清 史料から寛文事件との関わりを検証

譜代大名酒井家四代忠清は、江戸時代前期徳川幕府において老中、大老を務めた人物である。万治・寛文年間における仙台伊達家の御家騒動寛文事件に深く関わったことでも知られている。

伊達騒動、寛文事件に関わった者たちの中で、後世創作によって真相とは真逆の人物像を作り上げられてしまった代表的な人物が二人いる。

一人は寛文十一年大老酒井雅樂頭邸で刃傷を起こしたことで、寛文事件で極悪人に祭り上げられながら、小説やドラマの中では責任を自らが被り、伊達家62万石を護る主人公を演じた原田甲斐宗輔である。後のフィクションの影響があまりに大きく、多くの人が今でも虚構と史実を取り違えてることを散見するのは周知の通りだ。

そして、もう一人甲斐宗輔とは逆に、事件に対しては受け身、或いは職務上の必要から関わらざるを得なかっただけにもかかわらず、物語の最大の黒幕に祭り上げられ、結果的に権力を行使する独善的な政治家という悪評でイメージされてしまう損な役回りを受け持つことになった。それが酒井雅樂頭忠清であろう。

伊達騒動が広く人々に知られるようになったのは、事件後41年を経た正徳三年(1713年)に江戸で上演された歌舞伎狂言「泰平女今川」からだとされている。現在の四幕物「伽羅先代萩」は少しづつ形を変えながら現在に至ったものだが、大まかな筋書きは江戸時代から外れることはなかった。事件を室町時代応仁の乱に書き換えた勧善懲悪の物語に庶民は熱狂した。当の雅樂頭忠清も山名宗全として、当時から悪役扱いだったのは言うまでもない。江戸時代の一般庶民にとって、姿の見えない時の施政者が善人であるわけないと見做したのは自然の成行であったといえるだろう。

ところが、歌舞伎による戦前までの大衆の雅樂頭忠清=悪人というイメージは、戦後一層広く浸透する羽目となってしまった。それが、山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」と、それを原作とした大河ドラマのためだ。なんと云ってもテレビの影響は凄まじい、今日まで原田甲斐忠臣説、酒井忠清悪人説は完全に定着してしまったといっていい。

群馬県前橋市にある龍海院は、江戸時代に前橋藩を治めていた譜代大名酒井氏の菩提寺である。酒井氏は九代忠恭の時に姫路藩へ転封となったが、当寺は今日までこの地に残り歴代当主全ての墓所となっている。(1)

県庁ビルにほど近い一角、云わば人の出入りも激しい県政の中心地にありながら歴代の酒井氏が眠るこの墓所は厳粛な雰囲気に包まれている。ただし、墓所の案内板には寛文事件の「か」の字も見ることは出来ない。

「(前略) 傳テ云、廣之朝臣、御内談ノ趣ヲバ、小十郎ニ秘スベキノ旨仰セラレシハ、子細アリ、 忠清朝臣御存慮ニハ、綱宗公御不行跡ヲ仰立ラレ、御領地ヲ分テ、三十萬石兵部殿、十五萬石立花臺八殿、其外ハ右京殿、其内三萬石、小十郎殿ヘ下サレ、御旗本ニ召出サルベキ密計アリ(後略)」(萬治三年七月十八日茂庭家記録より)

「(前略)綱宗様、御行跡然付、御隠居願可被仰上爲、御相談之、好雪様、兵部殿ゟ、里見十左衛門被相下、御願被仰上候而、御進退、半分歟、三ヶ一也も、被相立候はば堪忍可仕候哉(後略)」(萬治二年二月五日奥山大學覚書より)

茂庭家の公文書に、綱宗公が幕府より隠居させられる以前、御側衆久世大和守廣之に茂庭周防定元が呼ばれ、片倉小十郎には内密とし酒井忠清が伊達六十ニ万石を三十万石兵部宗勝、十五万石立花台八、残りを田村右京に、その内三万石を小十郎に分割し大名に取立てる計画があることを聞かされたとある。(2)

この件について、「伊達騒動実録」の著者大槻文彦博士は、父祖が百戦の餘に得たる遺封を己が欲のために四分五裂せしめむこと、兵部如何に無道なりとも忍びざりし所ならむと怒りを露わにしている。だが、博士は「茂庭家記録」に「傳テ云」とあるようこれを全て信じるのもどうかと思うものの、その前年に里見十左衛門を仙台へ下らせ領地が半分乃至三分の一になっても幕府には服従すべしとある「奥山大學覚書」にも符号するとしている。

近年の研究ではこの件を真実ではないとする意見が大半を占めている。まず、「茂庭家記録」については、将軍家綱の治世に幕府の大藩取潰し政策は転換していたため、幕府創世の屋台骨を支えた政宗公の仙台藩を取り潰すようなことはしなかったであろう。ただし、問題が大きくなれば減封はありえたかもしれない。久世大和守が周防に話したのはその点であったはずで、「伝えて云う」とある分割の密計に関しては後日誤って伝わったものであろうと研究者たちは推測している。

また、「奥山大學覚書」は、寛文事件が落着した貞亭二年(1685年)に書かれたもので、大學が自分の都合によいよう作為したもののようだ。上記の文章の続きに、萬治三年七月九日の連判状に大学は署名しなかったと記されてるが、実際は署名している。(3)

たしかに、周防の話しは重大であった。それは、老中の酒井雅樂頭と伊達兵部少輔宗勝とが結託のうえ、仙台六十万石を横領しようとして、その計画を現にすすめている、というのであった。~「久世候が申されたのだな」~安芸の軀が動かなくなった。甲斐は沈んだ眼つきで、しかも殆んど無感動に、黙って扇子を使っていた。         「樅ノ木残った」より

大槻博士の半信半疑の影響もあったろうことから、この件は永らくグレイゾーンだった。「伊達騒動実録」をベースに書いた山本周五郎は仙台藩分割の黒幕として酒井忠清を小説に設定した。その後の影響が如何に計り知れないかはその当時は考えも及ばなかったであろうが。(4)

綱宗公逼塞に関して、酒井忠清は取次老中の立場から係わりはあくまで受け身であったのだ。綱宗の母方のいとこに当たる池田光政の万治三年五月八日付日記には、立花忠茂が光政を訪ね、「綱宗に意見しようとしても、面会を拒否されている。茂庭周防も病気を理由に話ができない。三人の家老を呼んで雅樂殿から叱責してくれるか内意を尋ねてほしい」と。忠清に相談すると「いつにても御出候へ」と返答があったと書かれている。

その後、光政邸に京極高国、立花忠茂、伊達宗勝が集まり忠清に依頼する前にもう一度親族から綱宗の不行跡を咎めようとなった。ここからも酒井忠清は事件の直接の関係者ではなく、職務上の取次老中としてだけ係わっていたことが明らかである。(5)

寛文元年三月、10ヶ月と約41000両を費やし小石川堀普請は落成した。土手を改修し舟運が開かれた神田から御茶ノ水を経て牛込に至る660間(1.2km)の堀は、現在の私達が日頃目にしている東京の風景の一つでもある。その堀普請の責任者であった茂庭周防はこの後、病気を理由に奉行を辞職した。だが、実際は奥山大學の綱宗不行跡の責任は周防にありという弾劾書による罷免であった。(6)

周防なき仙台藩奉行5人の中で、自らに権力を集中させた大學は亀千代丸後見の伊達兵部と田村右京を寛文二年に六ヶ条にまとめ幕府に訴え出た。兵部と右京は亀千代丸後見指名を受けた際、仙台藩からの加増を受け大名として独立したのだが、藩主である亀千代丸を通さず独自権限を藩内で行ったり、亀千代以上の格式の献上品を用いたりしたこと等がその理由であった。

寛文三年四月、幕府は六ヶ条全て亀千代丸方に従うよう決定し、兵部と右京はこれに従った。この問題を忠清が内々で解決したい様子が奥山大學覚書に見ることが出来る。兵部の息東市正宗興と忠清の養女の婚約が翌年に予定されており、娘はすでに兵部邸に入っていたためではと推測されている。(7)

寛文十一年三月二十七日、伊達安芸と伊達式部の谷地紛争判決不服に端を発した問題は大老酒井雅樂頭邸での原田甲斐の刃傷で幕を閉じた。諸説あるが、当日の記録は酒井家と伊達家では食い違う部分もある。しかし、小説のように忠清が仙台藩分割の密計を口封じのために刺客を差し向けた等はあり得るわけない。仮に忠清がそのように兵部と結託しているのであるなら、安芸が幕府に調停を申し込むわけがない。

酒井河内守殿、御登城被成様子言上被成候、此事、暫時ニ江戸中ヘ聞ヘ」、「諸大名旗本衆之御下中、雅樂頭殿御門前ニ満々候處ニ而、五太夫、蔵人勘右衛門ニ申候ハ、安芸殿ニ而ハ、不慮ニ、甲斐ニ御討レ、深手ヲオワセ候ヘ共、御脇差御抜候而、甲斐殿ヲ御拂、其太刀、甲斐ニ御斬付、御首尾合候由、高聲ニノベラレ候ニ依、天下ニハツト御名ヲ被上」(共に花井氏雑記より)

事件直後、忠清の嫡男河内守忠挙は玄関式台にて、乱心者により死者が出たが供の衆は騒がないようにと高声で知らせた。夕刻には、酒井家取次役上田五太夫は安芸の遺体を引取りに来た家臣亘理蔵人と村田勘右衛門に、大勢の諸大名と旗本の家来らに聞こえるよう安芸が甲斐に斬りつけられ深手を負ったが、脇差で甲斐を斬りつけたことを話した。このことからも忠清がいち早く安芸忠臣、甲斐悪人の線で事態をまとめようとしたのでないかと推測できる。(8)

それでも、史料から忠清が兵部側の人間であった可能性も捨てきれない。(9)

酒井忠清の評伝の中で、伊達騒動、寛文事件が大きく占めているのは間違いない。それは社会的な影響が大きかったことにもよるかもしれない。かと言って、それが全てではない。下馬将軍の考察や越後騒動と将軍綱吉との確執等。その死後一時的に権力者のレッテルを張られたが、それは徳川綱吉による将軍の発言力を強化する過程において、それまでの幕府と大名の間にあった儀礼的な取次構造の中心に忠清がいた結果だといえる。忠清が史料からも私欲のために政を行ったことはなかったのである。

忠清の墓所にいまだフィクションに偏りがちな寛文事件に関する案内がないのは、以下の話にその実像の一端を求めることが出来るからではないかと思う。慶安四年(1651年)、忠清は上洛した際に京都所司代板倉宗重の家来を案内に東山辺りを見物した。道橋に新しい小屋が多く建っていたのを尋ねると、乞食のためのお救い小屋であるという返答であった。それを聞いた忠清は、「真の仁政とは乞食のために小屋を建てることではなく、乞食を生まない世を作ることではないか」と話したという。(10)

(1)支藩であった伊勢崎藩当主の墓所も同地にある。

(2)立花台八は立花好雪忠茂の子、母は伊達忠宗の娘

(3)参照「女たちの伊達騒動」(注5)

(4)山本周五郎は小説の連載直前に宮城県船岡の直木賞作家大池唯雄を訪れ、資料の提供を受けている。大河ドラマが放送された1970年当時船岡には1日に10万近い観光客が訪れ、山が沈むという笑い話があったのだが、大池は小説と史実が混同されることを鑑み、「歴史家が書いた『歴史』ではなく、作家が書いた文学作品」と訴えたという。

(5)京極高国の正室は伊達政宗の四女千菊姫、綱宗には叔父にあたる。

(6)「相定候制札之事、夫傳馬幷宿送之事、大鷹之事、初鳥初肴公方ヘ指上候事、他国ヘ人返之事、境目通判之事

(7)「此志賀又右衛門義ハ我等女等共付置候者、近キ親類故、此者、度々使ニ参候、能處ヘ心付、書加候義、一段之由、被仰候、此趣ハ、雅樂頭殿、御隠密被仰聞候事候間(後略)」(貞享二年十二月十五日奥山大學覚書より) 志賀又右衛門は兵部の家来で忠清と兵部の連絡役であったとある。この後大學も里見十左衛門から弾劾され寛文三年に奉行を罷免された。そして、入れ替わるように原田甲斐が国老に就任した。

(8)姫路藩士武井守正の談に仙台砲という車台付きの大砲が江戸と姫路の酒井家に50門づつ配置されていたという。これは忠清没後、百日の閉門を命ぜられた酒井家に伊達家から一日一門の砲が送られ続けたものだという。寛文事件に際して、忠清の配慮を感謝した伊達家が武器を運ぶという名目で酒井家は開門したままで済ますことができた記念の大砲だと伝えられる。(武器の搬入に関しては閉門しなくてよいという慣習があった)また、維新の頃まで酒井家が火事で焼失するような時は仙台藩で板囲いするのが慣例であったと伝わる。

(9)「さる三月二十七日、上屋敷において、仙台の家臣原田甲斐殿、傍輩伊達安芸宗重を討ちけるとき」(直泰夜話より)雅樂頭の家臣が記した記録に甲斐には敬称を記述していると作家武田八洲満氏が指摘している。

(10)「葛藤別紙」享保六年。実話かどうかはともかく、江戸時代中期、忠清の評価が好意的であったことを示す挿話である。

その他の参考文献

「酒井忠清」福田千鶴、「伊達騒動と原田甲斐」小林清治、「仙台の歴史-伊達騒動」平重道

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