三村次郎左衛門包常 少禄ながらその忠義を大石内蔵助に認められた義士

元禄赤穂事件に係わった浅野家、吉良家や上杉家、その他も含めて個人一人一人にはそれぞれの物語があるわけだが、これを事件全体で一括りにしてみると関係者達に主役脇役の順列が付いてしまうのは仕方ないことである。平たく言えば、四十七士でさえ「赤穂義士伝」では主役になれても、「忠臣蔵」では大石内蔵助より上にキャストされることなどあり得ないといったところか。

そういう解釈からすると、失礼な言い方だが、四十七士の一人三村次郎左衛門は前後編の時代劇でも名前さえ出てこない義士の一人だといえよう。

次郎左衛門は、父喜兵衛の代から赤穂浅野家に仕えていたという。家禄は七石二人扶持。これは四十七士の中で足軽の寺坂吉右衛門に次ぐ低さであった。役柄は酒奉行兼台所役で、いわば会議の席に酒を運ぶのが仕事である。ある時、城中で酒肴を運んだところ、一座の者が急に口をつぐんでしまった事があった。身分の低い次郎左衛門に秘密裡の話を聞かせまいとしたようで、こうした行為に次郎左衛門は憤然と抗議し、しまいには切腹までしようとしたらしい。禄が低いからこそ忠義の志は誰にも負けないという自負が次郎左衛門の支えであったようだ。

当然のように主君浅野内匠頭の凶変に際しては、最初から義盟に加わっている。そのいきさつを次郎左衛門が友人の野々村平右衛門に書いた手紙が残っている。要約すると以下のような内容だ。

大石内蔵助殿が遠林寺で私をお呼びになり、浅野家に仕えた高禄者の中には自分のことしか考えない者が多いが、そなたのように少禄の者には忠義を尽くす者が多いと涙ぐまれた

遠林寺は赤穂浅野家の祈願所で、内蔵助が藩庁を当地に移し残務処理と開城の準備をおこなった寺である。また、当寺の住職祐海を使い浅野家再興の手がかりを模索していた。

祐海は、相弟子である江戸鏡照院住職に護持院大僧正隆光への仲介を依頼した。隆光は将軍綱吉とその生母桂昌院から信頼の厚かった人物で、世継ぎが出来ない綱吉に戌年生まれにも関わらず、犬を大事にしないからだという理由で「生類憐みの令」を出させた人物でもある。隆光から将軍家への取次を画策し、主家再興を第一としていた内蔵助の苦心を次郎左衛門は間近で感じていたのであろう。

次郎左衛門が禄は低くとも信頼に足る人物だと評価していた内蔵助は、江戸へ下向後に日本橋石町三丁目南小山屋弥兵衛裏店に同居させている。(1)

吉良邸討入当日、次郎左衛門は西組(裏門)の屋内討入組を請け負っている。得物は掛矢(大槌)であった。

東組の正門を担当した組では梯子を掛けて屋根を乗り越えたが、裏門組では次郎左衛門と杉野十平次が大槌で門扉を打割り突入している。つまり、裏門からの一番乗りが次郎左衛門であったのだ。

上記に次郎左衛門の名前がキャストされないとは書いたが、それは決して画面に登場しないという意味ではない。クライマックスで討入が描かれている作品には、この裏門突入のシーンは必ずといって出てくる。すなわち、裏門の門扉を打破り一番乗りを果たしている四十七士こそ次郎左衛門なのである。

屋内討入での次郎左衛門の記録はよく判っていない。主武器が大槌であったことから敵との戦闘というより、閉じられた扉を破壊し他の四十七士の移動を援護するのが与えられた仕事であったかもしれない。

また、泉岳寺に四十七士が引上げる際、隊列を組んでいるのも定番であるが、この時大石内蔵助が先頭に立っているのはフィクションである。将である内蔵助は中央にいたわけで、隊列の先頭を進んだのは次郎左衛門、神崎与五郎と茅野和助の三人であったのだ。

岡崎水野家にお預けとなった次郎左衛門は、稲垣佐助の介錯で切腹した。法名は刃珊瑚剱信士、三十七歳であった。

*この記事は神戸新聞2018年5月10日号をもとに書かれたものである。

(1)大石内蔵助が江戸で潜伏した小山屋弥兵衛裏店の現住所は諸説あるが、現東京都中央区日本橋本町4-15付近というのが大勢を占めている。当地を宿所としたのは内蔵助の他に、嫡男主税、小野寺十内、潮田又之丞、早見藤左衛門、そして次郎左衛門であった。

*参考文献 歴史読本『「忠臣蔵」のすべて』、「正史 忠臣蔵」福島四朗

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