新選組軍目付 粂部正親 会津戦争の間隙を突いて八丈島共和国独立を夢見た隊士

平成27年3月、宮内庁三の丸尚蔵館編集の『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』〈上・下〉が刊行された。これは、明治新政府成立に尽力した人物と近代日本の各分野で活躍した人々4500名にのぼる肖像写真集である。

この中に維新後官に出仕した元新選組隊士3名の写真が掲載されていた。その一人、陸軍歩兵中尉従七位猪野忠敬はかつて新選組で伍長を務めた粂部正親である。

粂部正親は天保十二年四月十七日(1841/6/6)に摂津大阪の生まれ。父は大阪天満与力を務めた幕臣であったとされている。

新選組へは元治元年九月、近藤勇東下に際した京阪での募集で入隊している。永倉新八の「同志連名記」には御府内浪士、島田魁の「英名録」には浪花久米部と記され、中島登は「戦友絵姿」に山城京都ノ産ナリと書残している。

余 二名ヲ相手トシ 久米部ハ三名ナリ (中略) 久米部ナル者 敵之爲ニ高股ヲ裏表ニ衝キ抜カレ 危ウク見エシニ ヨッテ遺憾ナガラ駕籠ヲ命ジ 旅館ヘヒキトリタリ」(秦林親日記)

慶応元年七月、奈良に潜伏した浪士捕縛のため、伊藤甲子太郎、篠原泰之進、富山弥兵衛、茨木司らと出動した。浪士との一時間余りの激闘の末、重傷を負っている。

文才あるをもって」(川村三郎書簡)、「久米部さんはなかなか気のきいた人物で」(稗田利八翁思出話)

慶応三年六月に新選組が幕臣として取立てられ、粂部は見廻組並御雇、隊中では平士から伍長へ昇格した。新選組時代の粂部がその本領を発揮するのは、この後隊士をまとめるリーダーとなってからではないかと思われる。

慶応四年三月六日の甲州勝沼の戦いにおいて、負傷した池田七三郎こと稗田利八は回想の中で、

わしら病人の一行には統領格で久米部正親さんが加わってきていましたので」と話している。

粂部は甲陽鎮撫隊本隊とは別に今戸称福寺に収容された負傷者二十数名を引率して会津へ先行する。当時二十歳そこそこの池田をはじめ、若い隊士たちにとって近寄りがたい幹部らと違い、二十八歳の粂部は頼りになる直近の上司のような存在であったのだろう。

同年閏四月から会津公の命により、新選組は白河口、母成峠を戦うも敗北が続いた。同年八月末、若松城内への籠城が出来なかったこともあり、土方歳三の榎本武揚旧幕海軍と合流して再起を計る組と山口次郎の会津公と最後まで戦う組とに分裂。粂部は理由は不明ながら会津に残り戦うことを選択している。山口らは越後街道沿い高久村(現福島県会津若松市神指町大字高久)を守備する萱野権兵衛の指揮下に入った。

同九月四日高久村ニテ戦争相始リ 当隊ゟ応援トシテ一小隊操出ス 然ル処無程 如来堂ノ本営エ敵兵不意ニ押寄セ 直接接戦相始リ候処何分味方二十余人ノ小勢故外防御ノ術ナク尽ク討死ス」(中島登覚書)(1)

同年九月五日、粂部らが陣を置いた如来堂が越後口の会津兵を攻め若松城下に帰還途中の彦根兵ら300に急襲される。中島登は全員の死亡を伝えているが、粂部ら7名は虎口を逃れている。(2)

この如来堂の戦いに関して、生き延びた隊士たちの口からは戦闘に関する話が一切出てきていない。実際不意を衝かれたことでパニック状態に陥ったため記憶にない、または思い出したくなかったとも云われている。(3)

同年九月七日、粂部たちは如来堂南西高田村に落ち延び、靖共隊と新遊撃隊の残兵と合流し、佐川官兵衛が指揮する会津藩兵、水戸諸生隊と行動を共にする。(4)

その後、永井野村、高田村での戦闘で敗れ、南の大内村から田島村(現福島県南会津郡南会津町田島)に敗走した。

明治元年九月二十四日、開城した若松城から会津公の停戦命令を受け取った佐川は会津藩兵の戦闘を中止させ、諸生隊らに今後の行動は自らで定めるよう伝達した。

そこで相談になったんだが、これから会津へ向かったところでもう官軍が一ぱいで到底も入城などは出来ない、それより第一まごまごしていると追手がかかる、それよりも一つ、天狗党が諸生派を追いかけて歩いているし、会津攻めで隙のあるのを幸い、われわれ一同で水府城下へ乗込んで、軍資金を占領し、あの城下で一戦起こそう

稗田利八翁の回想から粂部正親改め猪野豊之助忠敬のキャラクターが鮮やかに蘇る。(5)

諸生隊の隊長市川三左衛門が提案した水戸城奪取に、この日の下に行き場を失った長岡藩兵、貫義隊、純義隊、回天隊と義集隊の残兵たちも加わる。猪野も新選組隊士らを了承させ、藁をも掴む思いの860人近い軍勢が翌日田島から水戸に向けて行軍を開始した。

磁石をたてて、その通り、山でも川でもかまわんから真直に歩るいて行こう」(稗田翁談)

落武者同然の彼らは白昼の街道を避け、山間を強行突破したようだ。というのも市川に家族まで皆殺しにされた天狗党が諸生隊の残党狩りに執拗であったことを当人たちも重々承知していたからだ。当の天狗党は脱走軍が水戸へ向かっているとの情報を早々に入手し、九月二十七日に会津若松を出て水戸へ先回りしている。

一方、猪野ら脱走軍は当初日光を経由して水戸へ向かおうとしたらしいが、西軍が滞陣している報告を受けて粟生沢まで戻り、百村から石上村(現栃木県大田原市)へ南下。ここから箒川と那珂川沿いに水戸へと計画を変更。だが、下野近隣諸藩はすでに脱走軍の動きを察知していて、見つけ次第攻撃するを旨としていた。

旧幕諸隊は会津藩より十分な武器弾薬を与えられていたが、目的はあくまでも水戸城奪取であることから行軍途中での戦闘は避ける方針をとっていた。しかし、九月二十六日、片府田村に宿営中大田原及び通報を受けた彦根と徳島の藩兵に急襲された。片府田東の佐良土村に退却すると黒羽藩の待伏せに合い戦闘となる。互いに戦死者を出すが、脱走軍は那珂川を渡河し水戸藩領内へ逃れ、石塚村を占領しここで軍議を開いた。

「(猪野は)その中に、諸生派の人達をも、自分の意志通りに動かすような具合になりました」(稗田翁談)

新選組として数々の戦場を戦い抜いた実戦の積み重ねが猪野を軍の指揮を委ねる地位に押し上げた。しかし、彼が単なるキャリアだけの軍人でないことを後に自身の行動で証明する。

その瞬間、竹のはじけるような物すごい音が次から次とあたりを満たした。竹林に鉄砲玉の当る音は何倍にも、何十倍にも響いて、大戦争のような錯覚を起させるものだそうで、さすがの若者たちも耳をおおうてわれがちに、のぼりかけた坂をかけおりた」(6)

十月一日未明、軍を二つに分け猪野率いる新遊撃隊、諸生隊は徳川再興の大旗を掲げ水戸城北杉山門へ攻めかけた。だが、会津からの通報を受けていた藩庁は松岡藩の応援を得て防御を固め待ち構えていた。城門を容易に抜けないとみた脱走軍は藩校弘道館を占拠するが、時とともに敵の増援が増してきたため、夜陰に紛れ城外への退去に踏み切った。

苦心惨憺して水戸へ来て見ると、どっこいこちらの思うようには行かない、水戸城がまるきり空屋にでもなっているようなつもりだったのですが、そんな訳はありません」(稗田翁談)

十月三日、新遊撃隊は水戸城南の霞ヶ浦北岸玉造村(現茨城県行方市)で敗走してきた諸生隊と再合流した。

猪野は田島で水戸城乗っ取りを池田らに説得する際、以下のような話もしていたようだ。

軍資金と、食糧を充分に分捕したら、すぐに那珂湊から大船仕立てて、この一隊を引つれて八丈島へ渡る、そしてこの島を開拓して、一つの共和国のような独立国を建てよう

猪野のこの無邪気とも思える発想は一体どこから出たものなのだろう。

榎本の旧幕海軍が蝦夷を乗っ取るつもりらしいという噂でも聞き及んでいたのか。それとも、元々彼の中にあった夢物語の一つだったのだろうか。

八丈行きの一件は、大体一同に異論はなかった」(稗田翁談)

多数の戦死者を出し敗走した諸生隊市川は、水戸城奪取に大手を振るっていただけに、猪野の高崎藩銚子飯沼陣屋から弾薬食糧資金を奪い八丈島へ向かう策にすんなり乗ってくれた。

会津田島を進発した約860人の同志は、この時200人程度まで減っていた。彼らは高瀬船三艘を雇い、夜霞ヶ浦から銚子に向かい船を走らせたが、警戒していた麻生藩の探索に掛かり尋問を受け舟止めされる。麻生藩の記録に、隊長井野豊之丞なる者が、我々は徳川亀之助様家来であると返答したとある。しかし、目的地を聞かれ口を閉ざした事で不信に思った麻生藩は攻撃準備を始めた。事態を察した猪野らは船の燈火を消し行方をくらませた。追討に駆け付けた水戸藩に麻生藩は逃亡した者の中に新選組がいたと報告している。

水戸藩では、玉造村に残っていた小者から脱走軍が銚子に向かったことを知り、斥候を急派し四日に高崎藩陣屋に報告した。高崎藩は小見川藩に応援を依頼し利根川岸で脱走軍を迎え撃つ態勢を敷いた。

春江戸を出たわれわれが、方々でさんざん苦労して、水戸へ着いたのは何しろもう秋ー秋といっても十月末で、先ず冬になっていたんですから、しみじみこうして、官軍の目を忍んで逃げかくれするのが情けなくなった」(稗田翁談)

同月同日、この日は北風が吹く雨天、猪野らは水戸領内の潮来村近くで攻撃を受ける。ここで船頭に一人逃げられたため、二艘に200人を、残りの12人を伝馬船に乗せ須賀山村(現千葉県香取郡東庄町)の川岸に船を着け暗くなるまで身を隠した。

身も心も冷え切った脱走軍が縋るのは猪野の心に灯され続ける夢物語だけだったろうか。

利根川を下った脱走軍は、飯沼村(現千葉県銚子市飯沼町)に着岸した伝馬船の12人がまず高崎藩に拘束された。そこから上流の松岸村に高瀬船の200人が上陸すると、大砲を含む小銃装備300の高崎藩兵がすぐさま追跡に掛かり、騎馬で先行して来た部隊長から降伏するよう勧告を受けた。

猪野は市川ら脱走軍幹部と協議した結果、高崎藩に降伏することを決定した。傷を負い、弾薬も食糧も底を尽きかけ、それでも己の夢について来てくれた同志たちが今びしょ濡れのうえ凍えているの見た猪野も、ここまでだと悟ったのだろう。一瞬でも夢を見させてくれた彼らには感謝の気持もあったかもしれない。

ところが、市川ら諸生隊は帯刀のままの降伏を条件に持ち出したのだが、交渉役の大森弥左衛門が高崎藩兵に誤って射殺されてしまうという事態が発生。これに激怒した諸生隊は進退を決するまで戦うと息まき、双方一触即発の状態になってしまう。間一髪、高崎藩の部隊長が大小を差出し、自分を斬って進退を自由にして構わない、当藩はもう追跡しないと土下座して詫びを入れたため、諸生隊は猪野らと決別し南に去って行ってしまった。(7)

降伏した猪野は、責任は士分格の者にあるのでその他の小者に関しては放免するよう高崎藩に申し立てを行ったが、大総督府の返答を待たないと何も出来ないとされた。この時作成された降伏人名簿で池田や河合鉄五郎らを農夫・軽輩として扱っていることから、猪野は何より部下の救済を考えていたと思われる。また、自分たちはあくまで江戸を脱走した新遊撃隊であって、決して新選組であったことは口に出さないよう注意もしている。

十月十日、銚子に来た天狗党が収容された脱走軍を引き渡すよう高崎藩とひと悶着起こしている。高崎藩側では中央の指示待ちを理由に拒否したが、天狗党は諸生隊の者がいないか見極めたいと、一人一人を首実検した。

われわれ、丸腰で、しょんぼり出て行くと、天狗が大きな声で、『此奴は見覚えん』と言います。(中略)『近く貴公等は江戸へ送られるぞ』といいました。わしは夢ではないかと思った」(稗田翁談)

稗田翁の回想では、収容された蔵牢には夜具蒲団食事が思ったより豊富で、割とのんきにしていたとしている。

同月十四日、大総督府の指示で尾張藩の役人から護送申し渡しがあり、十八日に尾張高崎藩護衛により脱走軍全員が江戸へ向けて出立し、二十二日に外桜田の旧亀山藩邸に入っている。

その後、彼らは一年近い謹慎生活を送るが、ここでの日々は毎日のように焼物付きの食事を出され、寛大に扱われていたようだ。

猪野は放免後、兵部省の徳川降伏隊に応募し、明治五年に陸軍歩兵少尉、同十年の西南戦争に従軍し中尉へ昇進した。十三年大阪鎮台第九師管後備副官となるが、病のため仙台に移り、十九年十月に退官した。その後は絵を教えて生計をたてたとされている。明治四十三年九月二十五日死去。墓石には七十三歳と刻まれている。

宮城県白石市専念寺にある猪野忠敬の墓は、夫人ふさの実家本条家の墓所内に夫婦二人で一つの墓石として建立されている。二人は明治十三年五月に結婚したが、実子はなかった。養子の久六は日露戦争で戦死している。(8)

私が思い描く猪野忠敬は、逆境にあっても自らの信念を曲げず前向きに生きた人物だったのではと想像する。部下たちが最後まで猪野に従ったのは、彼は剣術に殊更秀でていたわけでもなく口先の達者な策士だったわけでもない、おそらく一緒にいるとどこか安心出来る独自の雰囲気があったのではないか。鳥羽伏見以降の数々の激戦を戦った新選組隊士池田七三郎が昭和まで生き、生身の証言が現在の私達に活き活きと伝えられたのは、子母澤先生のおかげはもちろんだが、猪野忠敬の部下から慕われる器量もあったから、と言っても決して言い過ぎにはならないであろう。

(1)この記述の前文、「(前略)夫ヨリ脱兵二千余塩川小田月辺ニ宿陣ス」とある。文章の繋がりから塩川村から山口次郎らが直接高久村に出動したようにも読めてしまう。が、実際はそうでなかったはずだ。母成峠で敗走した後、8月22日に天寧寺に集結し、翌日塩川村に移動した新選組であるが、天寧寺宿営中に互いの行動方針は明らかにしていたであろう。山口らはその後時間を置かず米沢街道を南下して萱野が守備する高久村に移動し如来堂村の守備を受持ち、9月5日には当地より救援に向かったと考える方が自然であると思う。土方が8月23日に米沢に向かい、その後会津には戻っていないのと、同日付谷口四郎兵衛日記に、「新撰組安富才介九人 仙台行ヲ決 綱木村休泊ス」とあるのが何よりの証拠だ。なお、塩川村に駐留していた新選組から高久村に救援に向かったかどうかは不明。

(2)現在新選組殉難地碑が建立されている如来堂(観音堂)は、新選組残党が守備した場所ではなかったろうと考えられている。小高い丘にその身を晒し守備側に圧倒的に不利な観音堂で大多数の敵と砲隊に不意打ちされていたら如何に歴戦の勇士であっても間違いなく全滅していたであろう。現在でこそ田園の中の小島のような観音堂ではあるが、廃城ではあったものの当地は関ヶ原開戦前夜に上杉家執政直江兼続が築城した神指城址二の丸土塁の一部である。今も約500m四方の二の丸堀跡と四隅の一部に土塁、石垣の痕跡を見ることが出来る。おそらく当時はまだ土塁が四方を囲む陣地として防衛に適した場所であったのだろう。とすれば粂部らが戦い、生き延びることが出来たのはこの土塁の内側にあった集落如来堂村(現神指町如来堂)に陣を敷いていたからに違いない。また、中島登の覚書にある高久村への救援に向かった一小隊が山口次郎らであるなら粂部らとその後別行動を取った答えはここにあるかもしれない。

(3)「新選組聞書」で稗田利八翁の回想には、今戸から粂部らと会津へ先行したが、既に会津が西軍であふれていたため引き返したとしている。もちろん、そういうことはなかったわけで、研究者たちはこれを記憶違いではなく、如来堂の戦いで敵前逃亡したことが新選組隊士としての負い目になっていたからではと推測している。

(4)新選組残兵は粂部の他に池田七三郎、吉田俊太郎、河合鉄五郎と梶谷隣之助。靖共隊林信太郎らは永倉新八と芳賀宣道が若松城に援軍を求めに行ったまま戻らなかったため会津藩の指揮下に入っていた。新遊撃隊は旧幕府遊撃隊を改め会津藩士佐藤織之進を隊長に水戸諸生隊と共に北越戦線を戦ってきたが、この時は名ばかりの状態であった。

(5)猪野は粂部の本姓ではないかと云われている。彼の戸籍謄本に「明治三年八月十六日猪野忠五郎絶家再興」とある。

(6)水戸藩の儒学者で弘道館の講師であった青山延寿は当時自邸にいたが、城が気になり向かったところ諸生隊に足止めされた。その中に弘道館の教え子がいたため見逃された。だが、後にその事を天狗党から非難され蟄居に追い込まれた。

(7)銚子を去った諸生隊113人は、二日後の10月6日八日市場村(現千葉県匝瑳市)に到着し、郊外の松山村に陣を敷き天狗党を待ち受けた。しかし、1000の部隊に取り囲まれ幹部たちは戦死し遂に壊滅した。市川はなお逃げ延び、東京で久我三左衛門の変名で潜伏したが、明治2年2月捕縛され、4月に水戸長岡原で逆磔に処された。享年53歳。

靖共隊の林信太郎も諸生隊に同行していたが、10月27日水戸街道を逃走中に久留米藩兵に討ち取られている。

(8)忠敬とふさが戦死した久六の招魂祭のため、明治39年5月1、2日に横浜に来た際、新選組の同僚であった近藤芳助改め川村三郎宅に一泊している。参考「新選組伍長 近藤芳助 子孫に伝わる近藤、土方の写真の真実は

*この記事は福島民報2018年5月20日号をもとに書かれたものである。

*参考文献 「新選組隊士人名事典」「新選組隊士録 川村三郎」釣洋一、「新選組事典」新人物往来社編、「新選組銘々伝 粂部正親」大蔵素子、「新選組聞書」子母澤寛 、「新選組日誌」菊池明 伊藤成朗 山村竜也、「軍事要塞如来堂」赤坂大輔、「銚子港始末」清水隆、「覚書 幕末の水戸藩」山川菊栄、「水戸藩」岡村青

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余談<猪野忠敬墓所への案内>

宮城県白石市専念寺墓苑にある猪野忠敬の墓は事前調査をしても簡単にはたどり着けないことが多いと思います。私自身リサーチしたにも拘らず一度目はギブアップしてしまい、二度目で見つけ出すことが出来ました。傑山寺側から来る案内を紹介されているブログもありましたので、ここでは専念寺墓苑入口からの案内を写真で簡単に掲載しておきます。

①国道4号を仙台から白石方面に走り白石市八幡町交差点(マックとENEOSが目印)を左折し専念寺墓苑(地図アプリに掲載)まで車で行けます。周辺に駐車場はありません。写真看板の歩道を上ってゆきます。

②真っすぐ上ってゆきます。林が見える辺りが頂上部でその先は下りになります。

③④道なりに真っすぐ行きます。

⑤⑥竹林と竹で組んだ垣根を左に曲がり、垣根沿いに進みます。

⑦真っすぐ進みます。

⑧写真先は道が細くなりますが真っすぐ進みます。

⑨写真の場所で左に曲がります。

⑩⑨で左にまがった後すぐ右に曲がります。写真では右下のお墓とお墓の間の狭い通路を行きます。

⑪写真の手水鉢の場所を左に曲がります。更に道が細くなりますが、ここまで来れば目の前に猪野忠敬のお墓は見えています。

⑫目的地に着きました。道を間違わなければ15分も掛からないと思います。また間違えて他家のお墓に足を踏み入れてしまう場合もあるかもしれませんが、失礼のないようマナーは守ってください。                                   以上

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