白井小助 性格が災いし維新の元勲に成り損ねた長州藩士

平生町歴史民俗資料館では、明治維新150年に合わせ幕末に活躍した長州萩藩士白井小介を紹介する企画展を12月23日まで開催している。

吉田松陰との出会い

白井小助 甚ダ志アリ

吉田寅次郎松陰は友人への手紙に小助の印象をこう綴っている。

嘉永六年(1863年)、松陰と同じ年に江戸遊学を許された二人は藩邸での寝起きを共にしている。

小助は文政九年生まれで松陰より五歳年上だったが、藩内での身分には大きな開きがあった。松陰は六十石の直参ながら、白井家は家老浦靱負元襄の家来であったため、毛利家から見れば陪臣の扱いであり大小を差してはいたが足軽か中間並の身分であった。

しかしながら、二人は意気投合し宮部鼎蔵ら他藩の共通の友人も持つようになった。

投獄された松陰へ差入をする

嘉永七年、松陰は浦賀に二度目の来航をしたペリー艦隊に弟子の金子重之輔と共に密航を企てたが、拒否され伝馬町獄に投獄された。小助はこの時、自らの衣服をはじめ刀まで売り、獄中の松陰に差入れを行った。だが、国法を犯した松陰の扱いに困り果てていた長州藩では小助の行為を黙認することができず、小助に強制帰国させた上で謹慎を申し渡した。

小助は大成せず

小助が帰国させられ程無く、松陰も藩の野山獄に移された。二人は手紙という形で友人関係を続けている。謹慎処分が解けた小助は、松陰に再び江戸遊学の希望を伝えている。松陰は、「聞ク 古助 将ニ笈一ノ専ノ字ヲ以テス 知ラズ 能ク肯綮二中ルヤ否ヤ」、と返事を書いている。(1)

謹慎前の江戸では、佐久間象山の塾に入門していたが昨今の世上から洋学への関心が高まっていたことが理由であるようだ。松陰は小助の移ろいやすい性格を見抜いていたようで、洋学を修めることは結構なことだが大成するまでそれに専心するようにと助言したのだ。

結果的に松陰の不安は現実となってしまい、小助は藩内に吹き荒れる攘夷思想に傾倒してゆくことになる。

文久二年十二月に起きた高杉晋作らによる英国公使館焼討事件の実行犯として小助も名を連ねている。

奇兵隊入隊、討幕への戦いに従軍

文久三年、高杉の献策により創設された奇兵隊に参謀として小助も入隊し、馬関戦争を戦っている。この後訓練中に雷管の暴発で右目を失うというアクシデントに見舞われるが、地元周防にて兵を募り南奇兵隊(後に第二奇兵隊)を創設し初代総督に着いた。(2)

この後、小助は四境戦争、鳥羽伏見の戦い、北越戦争を戦い抜き維新を迎えた。

ところが、小助は明治になり長州藩という権威と一級のキャリアを持ちながら官途を捨て故郷に隠棲してしまった。

司馬遼太郎の白井小助

爽快な人生を送った歴史上の人物を小説に数多く残した司馬遼太郎にとって、白井小助もその一人であったようだ。しかし、小助を書いた著書は短い評伝が一つあるだけだ。昭和47年に小説新潮12月号に発表した「長州人の山の神」の中で氏は小助を、「だれもが国事犯の松陰を避けるときに身を挺してそれを救援するというところに、小助の爽快な性格があった」としている。

だが、それ以前に発表した小説「世に棲む日々」の中では松陰への差入に関するエピソードは省かれている。また同作は、江戸での宮部鼎三ら松陰の友人たちの一人に名を連ねている小助を彼ら同様維新前に非業に倒れたとしている。司馬氏としては作品に小助を登場させても簡単に説明のつくキャラクターとして扱えず、あまり深く掘り下げることをしなかったのかもしれない。あくまで想像なのだが。(3)

また、氏は小助が政府に出仕しなかったのは、彼の後輩にあたる山形有朋や伊藤博文らより下の地位になることが耐えられなかったからだとしている。

明治政府に出仕せず

明治新政府の中でそれまで身分は低かったのにいきなり栄達した官僚たちは、鳥羽・伏見の戦いの後に京で立ち上げた新政権のスタッフとして諸藩が指名し参加させた政治と軍事のスペシャリストたちだ。

北越戦争時も、勇猛果敢ではあったが戦いを指揮する能力はそれほどでなかったようだ。自然と山形が指揮権を握ってしまうことになり、しかも、小助は異常なほどに出世志向が山形にあることがわかり、山形の作戦に何かとケチをつけるようになってしまったという。

結局、松陰の友人でもある小助を無位にさせておくことも出来ず、長州閥の高官たちは監察機関である弾正台を薦めたのだが、これも小助は自分が今日まで奔走して来たのは世のため人のためのものであるを理由に断ってしまった。

長州閥高官の恐怖の存在

小助は故郷である周防熊毛郡宇佐木村で塾を開き子弟の教育に努めていた。しかし、長州の後輩たちの東京の邸宅をいきなり訪問し傍若無人にふるまうということも度々行っている。特にその標的とされたのが、山形有朋、伊藤博文、井上馨、品川弥二郎らであった。

酒を飲ませろ、酌をしろは当たり前で、家人や召使らの前で主人を馬鹿扱いしていたようだ。特に、山形の夫人おともは厠の中から尻を拭くよう命じられ、とんでもないと怒りを露わにしたが、山形に「先生は松陰先生の古い友人でもあるからここは堪えてくれ」、と説得させられたという。

明治三十五年六月に小助が没した時、東京の長州閥官僚たちは一様に胸を撫で下ろしたに違いない。

(1)肯綮に中る(こうけいにあたる)とは意見などが急所を突くこと

(2)司馬遼太郎は、著書の中で馬関戦争の戦闘中に敵艦船からの砲撃で右目を失ったとしている。訓練説は小助の故郷山口県熊毛郡平生町にある山形有朋が記した小助の顕彰碑がもとになっている。

(3)「世に棲む日々」文庫本(2)10p

参考文献

「歴史のなかの邂逅」③ 司馬遼太郎

*この記事は山口新聞2018年10月5日号をもとに書かれたものである。

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