前田正名 明治日本に殖産興業を推進した薩摩出身の官僚をドラマ化

鹿児島テレビ放送が開局50年を記念し明治の官僚前田正名を主人公にドラマを制作する。正名役を大河ドラマ「西郷どん」にも出演している迫田孝也さんが決定している。

前田正名の生涯をドラマ化するのであれば、その業績から明治維新以降すなわちパリ留学帰国後に政府へ出仕してからと官を辞し下野した後をメインにと考えるものだ。しかし、ドラマのタイトルに「龍馬が託した男」とあることから、十代であった幕末を中心に、未来へ羽ばたくための根幹部分が如何に生まれたのかを描くのかもしれない。

出自

前田正名は嘉永三年三月十二日(1850/4/23)鹿児島藩の郊外に六人兄弟の末っ子として生まれる。父善安は藩の漢方医であったが、貧困と病のため家族は田舎に引越し母が中心となって畑仕事で切盛りしていた。(1)

八木称平の下で外遊を志す

安政五年、父善安は正名を友人であった蘭学医の八木称平に預けた。貧乏が行きずまったせいもあったろうが、ペリー来航以来世間が洋学志向に傾き始めたこともあり、住込みで正名に教育をと八木に託したのだ。

八木は緒方洪庵門下で、島津斉彬公から安政元年に江戸へ上るよう命を受け、帰国後に藩の子弟に対し蘭学塾を開いていた。また、種痘方法を解説した洋書を翻訳し、これが全国で読まれたことから蘭学の第一人者としてその名が通っていた。正名が住込みを始めた頃、八木は琉球館で外国との貿易事務に携わっていた。当時、貿易の発注業務は全てオランダ語で取引されていたため、彼が薩摩藩の海外(密)貿易の一翼を担っていた。

八木先生の信用を得て、その貿易事業の一部を取扱わしめられ、当時の密書其の他の重要なる使者には、大方正名之が任に当れり」、と自叙伝に書いているとおり八木から蘭学を学ぶと同時に助手として業務に携わっていた。この薩摩藩の外国貿易には武器の取扱も少なくはなく、正名は風雲を告げる国内情勢を肌で感じていたであろう。

将来の国家に処する所以を考へ、大に外国の事情に通ずる必要あるを感じ、̪荐りに外遊の念崩して止み難かりしも、尚ほ鎖国の時代なれば如何ともする事能はず、空しく数年を経過せり」(自叙伝より)

学業と貿易実務の経験から海外留学を志した正名であった。この頃薩摩藩傭船長崎丸に乗船していた兄善助が馬関海峡で長州藩から砲撃を受け死亡し、京に上った兄(名称不明)も尊攘派閥抗争の渦中で没している。(2)

薩摩藩英国留学生に選抜されず

元治元年六月、薩摩藩は八木の蘭学塾を藩公認の開成所に昇格させた。ここでは海陸軍の諸学科と外国語を中心に教え、藩外への遊学は開成所の卒業が許可の目安となるよう定めた。教授陣は八木をはじめ、前島密、招聘された中浜万次郎も名を連ねている。正名も自動的に開成所諸生となっている。

慶応元年一月、その開成所から十五名を選抜し英国へ留学させる五代友厚の進言を藩庁は実行に移した。残念ながら留学生の選抜条件が二十歳以上だったため正名は選考から外されてしまったと思われる。それでも、夢を諦めきれずに、「殖産興業の意見を陳述し外国留学の許可されんこと」と藩公に請うている。(3)

長崎に遊学

正名の強い希望を知った藩は、官費による長崎遊学を許可し当地において中原猶介のもとへ向かうよう命を出した。同年二月に英国留学生が出発したのと同じ頃正名は長崎へ向かい、中原の紹介で当地で語学塾を開く何礼之に入門している。

実は正名はそれまで前田弘庵と名乗っていたため、何礼之は先ず名を正名と改めさせた。また、各地から秀才が集まった塾生の中には、高橋譲吉、星亨、後に正名とは因縁の関係となる陸奥宗光もいた。(4)

御国元から寝具をおよこしになりましたが、御自分では一度もお使いにならず、友人にお与へになり、正名様は机にて御読書なさりながら、眠くなれば背後に毛布をかけて机に倚りかかつておやすみになり、目が醒めれば御勉強というやうなお暮しをされました

正名が下宿した大家原田甚五郎の孫峯子の証言だが、ライバルたちに遅れを取れないと寝る間も惜しんで勉学した様子がよく判る。また、この家の向かいに同藩の奈良原繁が住んでいたため、幾度も馳走されたということだ。

五代友厚からの影響

翌年二月、欧州から帰国した五代才助が外国掛として長崎に着任した。正名は五代の下で、武器購入などの重要取引の使者として働いている。

世界を自分の目で直に見てきた五代は、日本国が列強の弱肉強食の秩序を生き残るには開国による富国強兵策しかないという持論に到達していた。国内の農作物、生糸、木材、海産物の生産を拡大させ、これを輸出し先進機器、武器、軍艦の購入、技術者の招聘、留学生の派遣を行うことで国力を養い欧米と対等の力をつけるという構想を描いていた。

「五代才助は広く諸藩の斡旋を為せしも、廉潔自ら持して、偏に国家に尽す心を以て事に処し、聊かも商業的手段を試むる事なかりき。若し五代にして少しく商業家の心意気あらば、今頃は我が国唯一の大財産家となりて、今日借財に倒るるが如き事なかりしならむ。而して之れ軈て五代の五代たる所以也」(自叙伝より)

正名が明治の世になり経済の発展に生涯を捧げたのは、八木称平、中原猶介、そして五代友厚からの影響であったと述べている。

薩長和解のための密使~龍馬から刀を授かる

中原や五代の職務は幕末史の事変に直結連動していた。坂本龍馬、後藤象次郎、大隈八太郎(重信)、高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多らとのやり取りが日常の如く行われていた。

長崎に遊びてより、広く之等の豪傑と交際し、机上の勉学を廃して、見聞に就きて学」(自叙伝より)

慶応二年一月、薩長同盟が締結された。ところが、早々に両国間に亀裂が生じる事態が起きてしまった。

前年六月に長州藩は龍馬の亀山社中斡旋で薩摩名義の蒸気船桜島丸(長州藩では乙丑丸)を購入した。しかし、蒸気船の船籍は長州藩でも操船を亀山社中で行うという協定を斡旋の責任者であった上杉宗次郎(近藤長次郎)、長州の伊藤俊輔と井上聞多の三者間で契約に盛り込んだことを長州の海軍局が異を唱えたため問題が発覚した。(5)

二国間の調停に立った龍馬は両国藩主の親書を取り交わすことで問題解決に向けて動き出した。同年六月、薩摩から岸良彦七と平田平六を長州に派遣。正名は二人に随行する形で長州に赴いている。

十七歳の正名にとって、この任務は幕末史に直接係わった唯一の事件であった。

龍馬は三人を激励し、結果を早々自分に報告するよう告げた。そして、体格に比して大きすぎる長刀を差している正名に自らの刀を身に着けていくよう授けたのであった。

小倉経由で下関を目指そうとした三名であったが、馬関海峡は第二次征長のため小倉藩が渡航禁止、海峡封鎖を行っていた。夜陰に紛れ、泳いで対岸を目指すことを検討する三名であった。

その当座は別に恐ろしとも感ぜざりしが、次第に日を経るにつれて恐ろしさ加はり、その事を回想して戦慄を禁じ得ざりき」(自叙伝より)

肥前大村藩の船を買取ることが出来た正名らは、今にも戦端が開かれそうな海峡を横断するのを船頭が拒んだが、薩摩十字を染めた油単を振って長州側に合図を送り無事下関に上陸した。彼らを出迎えた桂、高杉、伊藤、井上はその労をねぎらった。翌日、湯田で長州公に親書を渡しユニオン号の問題は解決をみた。

正名は帰路、大宰府で二人と別れ、長崎の龍馬の下に向かった。報告を受けた龍馬は社中の面々とユニオン号で長州支援のため馬関海峡に向かうことになる。

渡航費のために英和辞書を出版

慶応二年四月、幕府は商用及び留学目的の海外渡航を解禁した。

「金だにあらばその目的を達し得べき見込み十分にあり、又手段も乏しからざりき」(自叙伝より)

その頃、三番目の兄献吉が友人の高橋新吉と自費で長崎に遊学し何礼之の塾に入門していた。下宿も正名と同じ原田家であり、三人は海外留学実現のための渡航費をどのように工面するかで頭を悩ましていた。

当時、貴重品であった開成所の辞書を編纂しその売上を渡航費に充てるというアイデアを友人の蔡慎吾が持ち掛け、塾の講師であったオランダ人宣教師フルベックが全面的に協力してくれることになった。

正名はそれまで靴磨きで費用を作ろうと考えていたが、兄たち共に寝る間も惜しんで編纂作業に取り組んだ結果、慶応四年一月に原稿の完成にこぎ着けた。

しかし、国内では英字印刷が出来なかったため、同年三月に正名と高橋は大阪より上海に密航し、紆余曲折を経て二千部を完成させ帰国したのは明治二年二月であった。(6)

殖産興業を柱に

明治二年仏国総領事コント・モンブランに随行するかたちでフランスへ向けて正名は渡航した。フランスでの足掛け七年の中、特に普仏戦争の体験は日本人にとって脅威であった西洋人の脆さを直視した出来事であった。このことが正名に日本が欧米に追いつける日が遠くないことを確信させることになる。

また、仏国の主要産業の中で農業の比率が現在同様に高かったことも、正名の日本における経済構想に大きく影響したことは言うまでもない。晩年、北は北海道から南は九州まで全国を行脚し地方産業振興のための演説を続けた正名であるが、そこまでをここで書ききることは出来ない。おそらく詳しくはドラマでも語られることはないだろう。それは、彼の物語が日本に帰国した後こそ一層長く波乱に富んだものとなるからだ。それこそ、大河ドラマ並のボリュームがなければ語りつくすことはできないのではないか。

動乱の幕末に十代であった正名は洋行への志を立てたが、それが直接後年の殖産興業に結びついたわけではない。しかし、多くの出会いの中でそれは少しづつ萌芽しフランス留学で身を結んだといっていいだろう。仮にヨーロッパでの海外体験がなければ後の前田正名も生まれてはいなかったのは確かである。そういう意味では目立った活躍はなくとも重要な期間であったと考えられる。

ドラマ「龍馬が託した男 名も無き薩摩藩士・前田正名」は2019年2月に放送予定である。

注釈

(1)七人兄弟であったとする説もある。

(2)長崎丸砲撃事件は、文久3年12月24日関門海峡通過中の蒸気船長崎丸を長州藩が砲撃沈没させた事件である。薩摩の蒸気船や反射炉の設計者宇宿彦右衛門を含む28名が死亡。船は密貿易のため兵庫から長崎に綿を運ぶ途中であった。長州側は外国船と誤認との見解を示したが、実際は朝廷が推進める攘夷に矛盾する薩摩の実情を暴露するためだったとする説もある。

(3)留学生には20歳に満たない人物が5名いた。名越平馬、町田申四郎、町田清蔵、森金之丞(森有礼)、そして磯永彦助(長澤鼎)。彼らは島津家に準ずる上級士族であったことが選ばれた理由である。

(4)長崎時代、正名は蒲団を持たなかった陸奥と一緒に寝る程仲が良かったという。その陸奥は金持ちを装って多くの蒲団屋から見本を借り少しだけ綿を抜いて返却し、自らの蒲団を拵えたという逸話がある。明治になり、正名が農商務省を辞任する切っ掛けとなる程陸奥と対立するとはこの頃には思いもよらなかったであろう。

(5)近藤長次郎は社中のためと思っての勇み足であったが、この問題が紛議したことでトマス・グラバーの英国船での渡航を社中に言い出せず、密航が露見したことで切腹するという事態になってしまった。

関連記事「近藤長次郎 子孫が長崎に顕彰碑建立を計画」(2010/8/23)

(6)三人が作った辞書は薩摩辞書として国内に流通し明治20年までに6回再販されている。また、正名が上海で印刷を行っていた時、兄献吉は東郷平八郎らと軍艦春日丸で函館戦争に従軍し、高橋は新政府の役人として招集されていた。そのため、正名は先行して300部のみを政府に買取ってもらい渡航費に充てたのだが、献吉と高橋は正名が独断で辞書を売り捌いたと非難し兄弟間に不和をもたらすことになった。(残りの1700部を完売した二人も後日米国留学を実現させている)

参考文献

「前田正名」祖田修、「五代友厚」桑畑正樹、「若き薩摩の群像」門田明、「薩摩藩英国留学生」犬塚考明、「坂本龍馬101の謎」新人物文庫編

*この記事は西日本新聞2018年9月26日版をもとに書かれたものである。

*番組HP:KTS鹿児島テレビ

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