幕府洋式歩兵撒兵隊 旧幕軍の一翼を担える兵力ながら早々に壊滅した直参部隊

幕末、現在の千葉県船橋・市川市で起きた市川船橋戦争の際、敗走中の旧幕府撒兵隊の兵士が身を隠した民家に残していった葵紋の銃弾入れが当地葛飾公民館で公開される。

撒兵隊(さっぺいたい)とは

慶応二年六月、幕府による二度目の長州征伐が行われた際、周防大島に出兵した幕軍側の人物の手紙に以下のような記述がある。

「(前略)歩兵組の事は、鍋かぶりの千人隊と号け、白胴服、別してその内にも撒兵隊の黒筋入りなど見請け候得ば

安政三年(1856年)に世界情勢を危惧した幕府が開所した講武所には剣術や槍術と共に西洋砲術も科目に取り入れられた。だが、集められた直参旗本たちにとって戦国以来鉄砲を所持するのは足軽など身分の低い者という固定観念があったため、講義を敬遠する者がほとんどであった。そのため、御目見以上の旗本による幕府洋式銃隊という構想は全く進捗しなかった。

桜田門外の変後の文久二年に軍制改革が行われ、小普請、小十人組、御徒組ら御目見以下の御家人による銃隊を編成しこれを持小筒組とした。一方、江戸近隣に知行地を持つ旗本に農村から人員を出させたり、市中から身分を問わず人を集め編成した洋式部隊を歩兵組とした。

上記文中にある撒兵隊とはこの持小筒組のことである。撒兵隊は軽歩兵に類され銃を装備するが帯刀もし大砲隊、輜重車等の補給部隊の護衛を任務とした。この呼称が使われるようになったのは、第二次征長以降のことだ。御目見以下でも市井無頼の歩兵組とは見た目で差別するところは直参としてのプライドの表れといえようか。(1)

幕府歩兵隊の反乱

鳥羽伏見の戦いに敗れた幕軍は江戸に帰還した。金目当てに募集に応じた市井の荒くれ者が多くを占めた歩兵隊も同様に陸路引き上げ江戸の各屯所に入った。しかし、負け戦のストレスがつのり、指揮官が戦死していたせいもあり規律を無視して街に繰り出し暴れ放題をやり始めた。しかも、そんな折に将軍慶喜の恭順と江戸開城の噂が流れたことで、歩兵組の間に隊の解散=食い扶持を失うという不満が爆発し暴動が発生した。

慶応四年二月五日、伝習隊四百人が八王子に向けて脱走したの手始めに各屯所で火の手が上がり始めた。

七日、三番町の兵隊五百人ばかり、夜中他の屯所に向きて放発し、同意を説き脱走す

勝海舟は回想録に暴徒と化した歩兵組が自分の従者を射殺して千住方面に向かったと記している。(2)

撒兵頭福田八郎右衛門

四月十一日、江戸無血開城と時を同じくして大鳥圭介率いる伝習隊第一、第二大隊千百人が脱走。市川国府台で第七連隊三百五十、御料兵二百、砲隊百、土工兵二百、桑名藩兵二百、会津藩別伝習隊八十、新選組九十が合流している。彼らがこの後戊辰の役北関東、会津、函館戦争を戦う主力となるのは周知の通りだ。

福田八郎右衛門がまず作戦計画を致しました。そもそも上総へ脱走しましたのは、江戸では何事もできず、一大勢力を作るには上総に屯集して、宇都宮地方の官軍の背後を襲うか江戸に逆さまに入るかというような方法を取らむと計ったのです」(江原素六談)

大鳥隊と別に江戸を脱走したのが、千五百からなる撒兵五大隊である。同日、霊岸島から船で木更津に移動し陣を敷いた指揮官の福田八郎右衛門は市川の大鳥隊と合流するつもりであったらしい。まず、福田が最初に行ったのは、抗戦か恭順かで様子見している房総小藩への圧力であった。

四月十三日、福田は請西藩真武根陣屋(現千葉県木更津市請西)に使者を送り、「徳川恢復同心之儀」を申し入れ、同月十七日に同所で藩主林忠崇に謁見し協力を要請したところ、忠崇公は、

もとより同意の旨、相答う。これより無二の佐幕に一決し、もっぱら戦争の用意をなす

請西藩領内での横暴

請西藩との共同戦線を確約させた福田は、早々に部隊を藩領内に移動させた。ところが、

みずから義軍府と称し、名を求めて実を務めず、紀律漫々して暴行多く、あるいは民家に入りて金穀を貪り、あるいは威をもって小民を駆役し、敗覆の勢い必ず近くにあり」(一無林翁戊辰出陣記)

直参ながら質の低い兵士たちが、高札を抜き捨て村役人を使役し、しまいには自分たち撒兵隊が上総諸藩に取って代ると高々と広言しまくったという。失望を禁じえなかった忠崇公は即刻撒兵隊との協力を白紙に戻したのは言うまでもない。(3)

撒兵第一大隊長江原鋳三郎

同月十七日、福田は第四、五大隊を木更津に残し、残りの部隊を他小藩との交渉と市川の大鳥軍と連絡させるべく九百の部隊を北進させた。翌日第一大隊三百は市川正中山法華経寺、第二大隊は船橋大神宮、そして第三大隊は姉ヶ崎妙経寺に入り本陣とした。

船で来たから仕方無いとしても、将校に乗馬がない。兵には支援の砲が無く、陣地を築く工兵もいない。だから、攻守ならびに伝令、周辺の偵察も出来ずにいる。そのくせ、兵たちはのんびりしていて、(中略)煙草をくゆらして雑談ばかりしていた」(江原素六談)

伝令がなかったこともあり、大鳥軍はすでに日光に向けて進軍した後で、北関東を転戦しているところだった。また、それを追撃する新政府軍も一部の部隊を除き近辺から立ち退いていた。

第一大隊隊長の江原鋳三郎は小普請組から講武所砲術教授方を経て撒兵隊頭に任じられたが、抗戦派の福田と異なり会津藩林三郎と肥後藩増田勇から撒兵隊が歩兵隊同様に暴発しないよう抑え役を依頼されたことで隊と行動を共にしていたのである。

上記の通り情報収集を疎かにしていた撒兵隊は市川船橋一帯が手薄な状況を把握することが出来ず、隊長の江原も当初の思惑通り積極的に動こうとはしなかった。

同月廿五日、八幡(現千葉県市川市八幡)の備前岡山藩の陣で江原は武器を携行したまま江戸に戻ることを要求したが、相手は武装解除を厳命。総督府参謀の木梨清一郎は当地区での諸隊布陣が完了するまで説得による時間稼ぎを指示していた。

市川船橋の戦い

慶応四年閏四月二日

『市川船橋戦争閏4月2日諸隊布陣図』(4)

閏四月二日までに両者の間で幾度かの交渉が行われたが、進展は見られずこの日総督府は最後通告を撒兵隊側に行った。すでに岡山、津藩が市川から第一大隊を、鎌ヶ谷の佐土原藩と行徳の福岡藩は第二大隊を攻撃出来る態勢を整えていた。一方、撒兵隊も敵の斥候の動きを察知し、開戦の兆しを感じ取っていた。

閏四月三日

翌日三日未明、先に動いたのは撒兵隊の方であった。第一大隊第一中隊は八幡の岡山藩を背後から突くため、木下街道北側から迂回し真間山を経由する進路を取り、主力の第二、三、四中隊二百は佐倉街道(現国道14号線)を西に進み敵を挟撃する作戦である。第二大隊は鎌ヶ谷から南下する佐土原藩を街道沿いで待伏せする態勢を取った。(5)

撒兵第一大隊

『市川船橋戦争閏4月3日午前2~8時戦況図』

しかし、夜間行軍のため迂回隊の第一中隊第二、三小隊が隊員が崖から転落する事故を起こし先行する隊に遅れを取り、しかも街道を左折すべきところを直進(×地点)してしまい本隊を見失うアクシデントが発生。

午前三時過ぎ、主力三中隊は八幡岡山藩駐屯地を急襲。逸れていた第一中隊の部隊はこの銃声を聞き、本隊を追うの諦め八幡の主力中隊に合流するため南下を開始。同じく銃声を聞いた市川に進出していた津藩小隊40も岡山藩救援に駆けつけたが、戦力比では撒兵隊が倍以上であった。(①)

此の時、彼我互いに民家の間に相交錯し、敵は咫尺の間にあり。予も亦銃を挙て狙撃する

夜明け頃、八幡に到着した第一中隊第三小隊長古川善助は激しい白兵戦が展開する戦場を述懐する。

一方、西進する江原鋳三郎率いる第一中隊40は八幡の銃声を確認しつつ、下総国分寺を経由して南下する予定であったが、市川から同じく背後を取るため迂回して来た津藩の小隊と遭遇し交戦を開始した。(②)

銃撃戦が曽谷台地と国分台地の間で二時間近く続いたが、江原は後続部隊到着を待つため前進を留めた。第二、三小隊が到着しないようなので江原隊は市川を目指し南下を開始。津藩は余力がなく追撃はせず、本陣の真間山弘法寺に引き返した。

午前十~正午頃、八幡で第一大隊本隊が岡山藩を退けていたため、江原は本隊と合流して津藩小隊も敗走させ市川を占領した。岡山・津藩は江戸川を渡河し対岸に撤退した。なお、横浜を警備していた靖難隊150が江原隊に合流して来たので市川の警備を彼らに任せ、第一大隊は補給のため中山法華経寺に引き返した。(6)

撒兵第二大隊

『市川船橋戦争閏4月3日午前6~午後2時戦況図』

鎌ヶ谷から第二大隊を福岡藩と挟撃する予定の佐土原藩は船橋を目指して南下中、午前六時頃馬込沢で第二大隊の待伏せ部隊に銃撃され戦闘が開始された。大砲もあり戦力では佐土原が有利だったため、撒兵隊は徐々に後退を余儀なくされた。(③)

第二大隊別働隊を退けた佐土原藩隊は南下を開始したが、夏見村で第二大隊本隊と激突。先の別働隊とは別の迂回部隊が北から挟撃してきたが大砲の威力の前に第二大隊は敗走した。これが第一大隊が市川占領した同時刻の午前十時頃であったようだ。(④)

佐土原藩は第二大隊の残存兵の掃討戦をせずに、福岡藩と合流すべく南下し第二大隊本陣船橋大神宮を攻撃した。迎撃態勢が間に合わなかった第二大隊は第一大隊に合流すべく西に敗走した。なお、戦火は神宮から船橋宿にも広がり一帯は灰燼に帰した。午後二時頃に佐土原藩は船橋を占領し終え、街道に西向きに大砲を配置した。

敗走

『市川船橋戦争閏4月3日午後1時~日没戦況図』

中山法華経寺で休息を取っていた第一大隊は正午頃に船橋で砲声を聞き、隊長の江原は第二大隊が戦闘に勝利しただろうと勘違いし西に敗走してくる敵を討つよう第一中隊に命じた。

程無く、敗走して来たのが味方だと確認した江原は、船橋宿西の海神村に中隊の半分を布陣し、中隊長亀里鉄五郎に半分の兵を海神南の二股に布陣させた。(⑤⑥)

江原は、第一大隊と同規模の第二大隊を駆逐した敵の兵力を過大評価したことで、戦力も劣り疲れ果てているはずの佐土原藩を追撃せず、海神村で敵を迎え撃つ作戦を取ってしまった。現在、この判断の誤りが市川船橋戦争の勝敗の帰趨を決定づけてしまったと広く考えられている。仮に佐土原藩の布陣する船橋まで攻め入れば、姉ヶ崎の第三大隊との連絡が付いたかもしれなかったからだ。結果的に滞陣したことで、第一大隊は退路を断たれてしまったのだ。

海神村に戦力を集中すべく、法華経寺に残してきた部隊に伝令を送る間もなく戦闘は開始された。遅れていた行徳の福岡藩がこの時点で戦場に到着し、江原隊と亀里隊と交戦状態になった。先手を打った撒兵隊であったが、増援の薩摩藩砲隊も到着し福岡藩は撒兵隊を包囲する陣形を取り、隊長の江原が左股を撃ち抜かれ戦線を離脱したことで勝敗の大勢はほぼ決定した。

法華経寺に残してきた大隊は負傷者等が中心であったが、小岩に布陣していた薩摩藩の小隊に攻撃を受けたようで壊滅している。(⑦)

市川を守備していた靖難隊は江戸川を渡河し退却していた岡山・津藩と真間山の隊が反撃に転じ敗走したようだ。(⑧)

此時巳に夕景に近く、我諸隊の何れに在るを知らず、銃声も亦聞く処なし」(古川宣誉談)

日没後、負傷した江原を海神村西の山野村に従者二人と共に民家に匿わせ、残りの隊士らは夜明けを待って、姉ヶ崎の第三大隊に合流すべく移動を開始した。(7)

撒兵隊の壊滅

一方、新政府軍は閏四月五日、柳原前光に撒兵隊の掃討と房総諸藩の鎮撫を命じた。市川船橋の戦いに参戦した岡山、津、佐土原、福岡、薩摩藩に加えて長州、大村藩の二千が七日に第三大隊を壊滅させ木更津を目指したが、敗報を聞いた福田は第四、五大隊を引き連れ南の大多喜の山中に身を隠してしまった。

江原を民家に残し、残存兵を率いて第三大隊に合流しようとした小隊長の古川善助は東金(現千葉県東金市)に至り、ここで中隊長亀里鉄五郎の部隊と合流し福田のいる木更津真里谷に向かうが、新政府軍を避けながら牛久を経由した際姉ヶ崎が戦闘に入ったことを聞いている。彼らは救援に駆け付けようともしたが、すでに弾薬も底を尽いていたため木更津を目指すしかなかった。

七日の夕刻、第一、二大隊の残存部隊は木更津に到着したが、福田らはすでに撤退した後であった。敗残兵を収容するために残っていた兵士から行く先を聞き後を追った。

殆ど土崩瓦解、再挙の望み全く絶えたり」、「予は此夜中隊長に具申し、船橋方面に向て退却し後ち江戸に帰れり」(古川宣誉談)

夜半に大多喜に着いたが、その途中落伍する兵が続出したようだ。とても撒兵隊を再編成する状態などではなく、結果的に個々で脱出し解散することになってしまった。(8)

わずか一日で市川船橋戦争の勝敗が決し撒兵隊は壊滅してしまったが、姉ヶ崎の第三大隊と木更津の第四、五大隊との連携が上手く働けばこれ程早くに戊辰史から姿を消すことはなかったであろう。日和見をしていた房総の小藩も撒兵隊に勝機がありそうだと見えれば手のひらを返していた可能性もある。何より新政府軍には南関東で長期に渡り大部隊を動かせる余裕はなかったであろうから、北関東の大鳥軍との両面作戦になれば一層困難な状況に陥っていたのではないか。いつもの如くあくまで個人的な推測ではあるが。

注釈

(1)撒兵隊と同様に御目見以下の軽輩で小十人組、徒士組等から選抜された親衛狙撃隊という洋式銃隊も組織されていた。なお、第二次征長の敗北を受けて幕府は慶応二年に再び軍制改革を行っている。過去の因習に囚われていた上士もこれ以降有無を言わさず銃隊に組み込まれ、小姓組、中奥番組、書院番組、大番組、新番組は全て奥詰銃隊と遊撃隊として再編成された。

(2)静止を聞かずに脱走した歩兵組11、12連隊は抗戦派を江戸から追い払いたい勝と一旗揚げたい古屋佐久左衛門の思惑が一致し、古屋に説得されて直轄地の信州中野陣屋に向かうが、途中の下野梁田で土佐板垣退助と薩摩伊地知正治の東山軍に急襲され敗走。会津で衝鋒隊と隊名を代え北越戦争に出陣している。

(3)忠崇公は、4月28日に木更津に上陸した人見勝太郎、伊庭八郎ら遊撃隊34名と同盟し箱根山戦争を戦うことになる。

(4)地図は史料に基づき島柊二が作成していますが、あくまで推測の範疇であることをご了承下さい。Powered by Google

(5)斥候が行徳の福岡藩を探知していなかったのか、初動に関して采配されなかった。

(6)靖難隊は江戸を脱走した旧幕軍の洋式歩兵部隊で隊長は奥田長蔵。脱走後、彰義隊に分裂したが、本隊は松戸金ヶ作に駐留していた。甲州勝沼の戦いにおいて、新選組土方歳三が援軍要請に向かった菜っ葉隊とはこの靖難隊の通称である。

(7)残存部隊の掃討を急いだ新政府軍が市川と船橋の逃亡兵捜索を早々に切り上げたことで江原鋳三郎はひと月程傷の療養をした後江戸へ逃れている。その後沼津に移り住み、教育者として生涯を終えている。なお、撒兵隊頭の福田八郎右衛門はその後の詳細はわかっていない。

(8)古川が残してきた江原に会うため船橋に戻ったかどうかは判明していないが、無事に江戸へ逃げ延びた。後に江原が設立した沼津兵学校で学び、陸軍に出仕。日清、日露戦争に従軍し陸軍中将に昇進している。

この記事は朝日新聞2018年10月29日版をもとに書かれたものである。

参考文献

「遺聞 市川・船橋戊辰戦争-若き日の江原素六」内田宜人、「南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記」大鳥圭介/今井信郎、「幕府歩兵隊」野口武彦、「脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯」中村彰彦、「黒鍬者」司馬遼太郎、「下総市川宿の戦い」東郷隆

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