広瀬河原の殉教 カルバリヨ神父と後藤寿庵

江戸時代のキリシタン禁止令により仙台伊達領内の広瀬川河畔で宣教師と教徒が命を落とした。この史実を後世に伝えるため、毎年事件の起きた二月下旬に近隣8教会が主催し殉教者へ聖歌と祈りを捧げている。

伊達政宗のキリシタン弾圧への変節

元和二年(1616年)八月、徳川家康が死んだこの年将軍秀忠はキリシタン禁教令を強化した。それでも伊達政宗は仙台領内の信徒たちを迫害するようなことはしなかった。それはこの時点でローマ法王への領内での布教と通商を結ぶための親書を携えた支倉常長が帰国していなかったせいもある。(1)

常長の帰国した元和六年、イスパニアとの通商も夢に終わった政宗公は領内のキリシタンへの弾圧を進めたものの、それはまだ手緩いものであった。しかし、将軍職を世襲した家光は元和九年にキリシタンへの容赦ない弾圧を一層強化したため、公も本腰を入れざるを得なかった。奇しくも病だった常長も前年に死去していた。伊達領内の信徒たちは、ある者は財産を没収され追放処分となり、ある者は死刑に処された。領内に留まらず奥羽全域において信徒たちの中心人物であったヨハネ後藤寿庵も拝領地の見分村福原(現岩手県水沢市)を召し上げられ追放された。

奥羽キリシタンの柱石 後藤寿庵

後藤寿庵の出自に関しては確たるものがない。一説に葛西氏の家臣岩淵家の者で、豊臣秀吉の奥州仕置による改易後、九州の五島に渡り後藤を名乗ったとされる。その一方で伊達家家臣後藤孫兵衛信康の義弟であるとする説も有力視されている。(2)

寿庵は政宗公にイスパニアとの通商を橋渡しした京都商人田中勝介の推挙により、慶長十六年に千二百石で召し抱えられた。(3)

彼はキリスト教に帰依した侍でもあったので、伊達家臣となった後の大阪冬の陣では鉄砲隊隊長として出陣したことが記録に残されている。

また、バテレンがもたらした西洋の技術と機械により、入植した宣教師からは「砂漠の如し」と嘆かれた胆沢平野に灌漑用水路を苦難の末開削した。現在も「寿庵堰」または「寿庵田水掘」と呼ばれるこの大用水路に多くの農家の人々が恩恵を受けている。

「寿庵は斬るな!」

将軍直々にキリシタン弾圧を言い渡されたものの、政宗公は後藤寿庵に関しては心を痛めたとされています。それは後藤家の家名も然ることながら、彼の行動力とその実績に一目置いていたためであろうと。食邑の福原へ捕吏を差し向ける前に江戸での重臣会議の席で公は、「他のキリシタンはともかく、寿庵だけは咎むるに及ばず」と発言された。

だが、重臣の一人茂庭石見(綱元)が、「キリシタン教徒を罰するならば、先ずその巨魁、即ち、寿庵殿御自身を罰するのが常道かと・・・」と大声で諫めたという。

政宗公は寿庵に対して常々、「寸時タリトモ其ノ屋敷内ニ切支丹ヲ立チ入ラシメヌコト」、「如何ナルモノニ対シテモ信仰ニ導キ入レルタメノ勧誘ヲナサザルコト」、「如何ナル間柄ノモノニ対シテモ彼ガ斯ル許可ヲ主君ゟ受ケタルコトヲ口外セヌコト」の三ヶ条を守るよう言い渡していた。だが寿庵は、「信仰の自由を得られないのであれば命も惜しくありません」と答えていたため、公もそれ以上は何も言わず曖昧なまま今日まで来てしまっていた。

元和九年十二月、寿庵の屋敷を包囲した捕吏たちは公の命通り、暴力を用いず逃げ口を開け全員を逃した。寿庵と十ニ人の同志たちは南部領内へ向かった。

イエズス会宣教師 ディエゴ・カルバリヨ

寿庵の屋敷から逃れた者たちの中に、幕府から最重要指名手配を受けていた宣教師カルバリヨ神父がいた。寿庵に洗礼を与えたのがカルバリヨであったろうと伝えられている。彼は寿庵とは別に西の奥羽山脈下嵐江(おろしえ)に向かった。寿庵はお咎めなしであったが、神父には藩庁の尾行が付いた。

カルバリヨ(日本名長崎五郎衛門)は1577年ポルトガルの生まれ。慶長十四年に来日し、天草で日本語を学んだ後畿内を中心に伝道を続けた。慶長の追放令で一度離日したが、元和二年に日本に戻り奥州各地に布教した。

カルバリヨは寿庵に累が及ばないよう別れたとされている。下嵐江にいるマチヤス伊兵衛というキリシタンを頼り、二人の信徒と共に雪深い谷間の柴小屋に身を隠し春を待って出羽に向かうつもりであった。

しかし、追跡してきた捕吏たちは雪原の真新しい足跡を頼りに柴小屋に踏み込んだ。神父の姿が見当たらなかったため、村人全員の身ぐるみを剥ぎ雪の中で縄に掛けて打ち据えた。柴小屋からその惨状を見かねた神父はついに自主した。変装のための和服を法衣に着替えた後縄を掛けられた。

伊兵衛と伝道士のポーロ金助、その他多くの信徒も自ら縛につき水沢の役所に連行された。その日は大雪で、高齢のアレキシス考右衛門とドミニコ道斎は歩行困難となりその場で斬首のうえ滅多切りにされた。辿り着いた信徒らは見世物にするため広場に立たされたまま放置されたが、誰一人転宗する者はなかった。

同月二十三日頃、一行は仙台に向けて四十里を四日掛けて数珠繋ぎで引かれていった。途中カルバリヨ神父のみ馬に乗せられた。道中、自らキリシタンを名乗り縄をうつよう願え出る者がいた。ただし、領外の者は許されなかった。(4)

広瀬川原の殉教

旧暦大晦日、奉行茂庭周防良元は九人を広瀬川大橋下の川岸に深さ二尺の穴を掘り、周囲に木柵を作らせそこに水を引き込み水牢とし、全員を一人一人棒杭に縛り裸のまま座らせた。役人らは転宗しろとさかんに責め立て、神父は信者を励まし全員で祈祷を続けた。

最初にマチアス次兵衛とジュリアノ次右衛門の死亡が確認され水から引き上げられた後、切り刻まれ広瀬川に投げ込まれた。

正月三日の後、寛永元年(1624年)正月四日に再び拷問が行われ、一人も転宗する者なく皆凍死した。カルバリヨ神父も最後数時間生存していたようだが、真夜中に息絶えたという。四十六歳だった。

その後の後藤寿庵

福原を追放された寿庵たちは秋田仙北地方に逃れたという説がある。この地でキリスト教を大眼宗と呼び名を変えその教祖になったというのだ。(5)

もっとも有力な説は、南部領朴ノ木金山(現岩手県紫波郡紫波町佐比内)の潜伏地である。伊達家臣横山将監の書状に、「少介寿庵ヘ参候時馬売候金御座候間 少介ニ我等右代ヲ出不申候ニ仍テ 五十両之金ヲ出申候 則其金ヲ寿庵請取ニ而(中略) 云々・・・ 南部ヘ被参候而モ孫左衛ヲ使ニ被仕・・・云々」と記録されている。

寿庵は、貧農への援助や寿庵堰を完成させるために多くの借金をしていたようだ。草刈玄蕃、浅利主膳、御娼様(政宗側室?)から借りていた記録もある。だが、領地を立ち退いた後も借金の利子は孫左衛を使い返済していたのだ。

見分村福原に残ったキリシタン信徒たちは八十七戸が転宗したとされている。この地はその後古内伊賀義重が領することとなり、寿庵の家臣だった者を「福原足軽組」とし、「福原類親族」とも呼んだ。彼らは年に二度、キリシタンに復してないか常に監視を受けていた。

だが、昭和の調査で福原小路の観音堂からはローマカトリックのメダイが発見されるなど、福原の信者たちはその後もかくれキリシタンとして信仰を持ち続けていたと考えられている。

余談:米ヶ袋の縛り地蔵尊

今日、カルバリヨ神父たち九人の殉教碑が建立されている青葉区西公園から広瀬川下流の米ヶ袋には、縄でぐるぐる巻きにされたお地蔵さま「縛り地蔵尊」というものがある。現在、この由来を寛文年間に仙台藩で起きた伊達騒動において、伊達兵部宗勝を斬ろうとし処刑された伊藤七十郎を供養したものという仙台市の案内がある。しかし、只野淳氏の「仙台キリシタン史」は、これは広瀬川に切り捨てられた神父らの遺骸を下流の信者らが拾い集め、鹿子清水に供養したものだとしている。キリシタンは怪力があり化けて出るのを防ぐために五体を縛ったのでこの名が付いたというのだ。

また、この案内板には由来の出典として大槻文彦博士の「伊達騒動実録」、三原良吉氏の著書(「廣瀬川の歴史と傳説」)を明記しているが、「実録」は米ヶ袋に伊達家の刑場が元禄年間に七北田に移されるまで存在していたとだけ記し、三原氏は七十郎の供養のためか、あるいはカルバリヨ神父の首を川から拾い上げて供養したものかもと著している。

*この記事は河北新報2019年2月25日号をもとに書かれたものである。

*参考文献「仙台領キリシタン秘話」紫桃正隆、「伊達政宗」小林清治、「廣瀬川の歴史と傳説」三原良吉

(1)関連記事「支倉六右衛門常長 月ノ浦より出ずる」(2008.9.23)

(2)伊達家世臣後藤信家は、子寿庵がキリシタンへの傾倒が強く家禄を顧みなかったことから、絶縁し湯目家の次男孫兵衛信康を養子にしたと伝えられる。この説が有力視されているのは、孫兵衛信康が軍法違反で所領没収後に許され賜った江刺郡三照村(現岩手県江刺市)と寿庵の福原は近い位置にあること。また、寿庵の死には各説があるが、彼の墓が江刺郡三照村の正源寺にあるという説。更に、仙台に在住していたベールヂアクカラワイル神父は寿庵が幕府の迫害を逃れミナク(三照)の信康の保護を受けた」と記録に残していること等。

(3)田中勝助を通じての支倉常長の推挙だとも言われている。

(4)元東北大学教授村岡典嗣氏が死亡した九名の名と出身地を記した古文書を発見している。それには、「きりしたん御せんさく覚」とあり、高橋佐左衛門(若狭小浜)、野口ニ右衛門(豊前)、若杉太郎衛門(但馬)、安間孫兵衛(遠江)、小山正太夫(越前)、佐藤今右衛門(若松)、長崎五郎右衛門(カルバリヨ)、次兵衛(相模)、次右衛門(越中)、日付は(寛永元年)正月二日とある。次兵衛と次右衛門を除く七名は仙台領外の武士であったようだ。迫害を逃れ他領から落ち延びて来た信徒たちで、最後まで神父に従ったのであろう。推測だが、伊達領内のキリシタンらは寿庵と行動を共にしたのかもしれない。

(5)元和七、八年の頃、秋田仙北地方で「大眼宗」という信仰が流行したという。これは太陽と月を礼拝する教義のようで、「ダイウス宗」とか「キリシタン宗」と呼ばれた。事情の知らない一般の人からはキリスト教と同じに見られたのは言うまでもない。この教祖という者が仙台から来た七右衛門と称したという。後に教団の者は秋田藩庁に囚われ首を刎ねられた。この七右衛門と後藤寿庵を同一人物だとする説があるが、寿庵が追放された元和九年とは時間のズレがあるため別人物(寿庵の弟子だったとも)であろうというのが大勢を占めている。

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